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うめきた地下

藤井寺に赴き、寺社や古墳を見学した帰り道
(3月18日)、JR大阪駅・うめきた地下ホーム
開業した日でしたから、野次馬根性丸出しで、
覗きに行っていますよ。「グラングリーン大阪
うめきた2期)の地下に出来た訳ですね。既存
ホームの西端まで行き、B1に潜りました。うめきた
地下ホームは、21~24番線。例のフルスクリーン
ホームドアは現在、特急(はるか、くろしお)や
貨物の西九条行きが停まる21番線のみ。22~
23番線ではおおさか東線の折り返し。24番線が
特急等の新大阪行きでした。とにかく、これでJR
大阪駅には、うめきた地下口西口(1F)が増えた
格好。従来の出入り口は――1Fの桜橋口、中央口、
御堂筋口、南口、3Fの連絡橋口(嗚呼、橋だったか)。
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テーマ : 建築
ジャンル : 学問・文化・芸術

tag :

親子地蔵尊

2023_03_17_親子地蔵尊 Osaka Metro・今里駅から、今里筋を南下して行きます。
 近鉄・奈良線/大阪線のガードを潜って、しばらく進み、
 適当な所で東に折れると、大阪市生野区中川1丁目辺り。
 地図で見ると、三角地帯。その東側で、中洲のような
 緑地帯に出喰わすと思われますが、脇に地蔵堂が建ち、
 「親子地蔵尊」が祀られていました。昔から在ったのか
 どうか、記憶が朦朧としています。鶴橋で働いていた頃、
 今里新地までご飯を食べに来たり、最初に携帯電話を
 購入したのも、この辺りだったような気がしますけれど。
 場所柄、妙に生々しい親子感。(裾に縋り付く子供は除く
 として)足下に立つ者と左手に抱かれる者、2体が地蔵の
 子供なのかな。堂の基壇や石標等には年季が感じられ。

テーマ : 仏教・佛教
ジャンル : 学問・文化・芸術

tag : 仏像

西国三十三所(05)

西国三十三所観音巡礼”の第五番札所を訪れました。
藤井寺市_マンホール(第12弾)
藤井寺市_マンホール(第5弾)

構えることはありません。割と通い慣れた部類に入る
紫雲山 葛井寺」ですもの。余裕を見せ、まなりくん
挨拶をして、「藤井寺市観光案内所(ゆめぷらざ)」で
マンホールカード・第12弾(右上画像のマンホール蓋を
デザイン)、「藤井寺市立生涯学習センターアイセル
シュラホール
)」では第5弾(右下画像デザイン)を集めて
回っています。市章も外周も前方後円墳でして、その
間は藤井寺市の木=(菅原道真!)が埋め尽くす、と。
さて、「葛井寺」自体は、商店街に面した西門(四脚門)を
過ぎ……西門が豊臣秀頼が建立した旧・南大門とあれば、
前日に「玉造稲荷神社」の折れた鳥居を観たばかり
だったため、シンクロニシティを意識させられて。「阿弥陀
二十五菩薩堂」は改修中でした。まずは、札所の御朱印
(大悲殿)を頂いた後、最初で最古の「十一面千手千眼
観世音菩薩像
」の御朱印(蓮華王)も頂きましたよ。
       ☆
御本尊開扉日の解説ビデオのナレーションでしたかしら。
国宝千手観音は1,043本の手を持つ?! 小手1,001本
(余計な1本は取り合わず)は間違いないでしょう。そこから
先、手元の『週刊 原寸大 日本の仏像45』(講談社)では、
合掌手と持物を持つ大手が40臂 」と書かれており、
「葛井寺」のHPでも「1,041本」と明記されています。ぼくも
1,041本説を採っているのですが、何故に「1,043本」説が
根強いのか? 歴史探偵には一瞬、ぴんと来たような錯覚。
三十三所の各札所で配布されている「西国巡礼慈悲の道」に
おいて、「葛井寺」の法話のタイトルが「一千四十三の慈眼」と
されていました。文中には、はっきりと1,041本の手と断られて
いるのに……しかし、「十一面千手千眼観世音菩薩像」です。
それぞれの手にも眼を有しているのです。つまり、1,041の眼に
本来の観音の顔の一対の眼を足した1,043の眼が、1,043の手
と 取り違えられたのではないか?
 ところが、話はすんなりと
まとまらないの。(葛井寺の)千手観音は十一面でもあって、
頂上仏面を含め、頭上に11面を有している以上は、そもそも、
1,043の眼すら成立せず、正確には「1,065の眼」になる勘定。
       ☆
とまれ、真相はもっとシンプルで、汎用タイプの千手観音像が
合掌手を入れて計42本となることから、葛井寺の千手観音も
+小手1,001本で1,043本としたのかもしれませんね。葛井寺の
本尊は(脇手のうち)持物を持つ大手が40本でなく、38本(原寸大
P.10~11の見開き参照)。合掌手を入れて40本なんだってば。

参考文献:『週刊 原寸大 日本の仏像45』(講談社)

テーマ : 仏教・佛教
ジャンル : 学問・文化・芸術

tag : 仏像建築

玉造稲荷神社

2023_03_17_玉造稲荷神社 江戸時代に流行した伊勢参りの(大坂以西の)出発地
 となったのが玉造。昨今の交通事情から、暗越(くらがり
 ごえ)
奈良街道ばかりが喧伝されるのですが、そうでも
 ないのですがねえ。生駒山地をどう越えるかはともかく、
 玉造が出発点で、「高麗橋」に里程元標が建てられ
 (明治9年)、暗越奈良街道の起点まで高麗橋に変更
 されたのはアナクロニズム。「二軒茶屋」が引き合いに
 出されるのですが、玉造、(または)中道村に在ったと
 されているところも要注意。「二軒茶屋跡」の石碑も
 建っていて紛らわしいのですが、あくまで、大坂から
 (複数ある)伊勢街道――奈良街道への起点です。
 生駒山地を越えるに際しては、暗峠と限らず、鳴川峠、
 十三峠も在る訳ですから。高低差を露骨に感じながら、
 「玉造稲荷神社」(大阪市中央区玉造2−3−8)への
 階段を上りました。目的は「伊勢参宮本街道行程図
(500円)でしたけれど、御朱印も頂いています。豊臣秀頼が奉納した鳥居、「胞衣塚
大明神
」、聖徳太子、小野小町、千利休にまつわる各種史跡、「難波・玉造資料館
等、ネタが満載で、到底紹介し切れません。小出しに使っていくことになるでしょう。

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テーマ : 史跡
ジャンル : 学問・文化・芸術

tag : 史跡地図呑む

八反田地蔵尊

前日は街道巡りの後、夜勤シフトが入っていました。2023_03_15_八反田地蔵尊(阿弥陀如来)
朝8時まで業務をこなしつつ、頭の中は大坂の街道を
駆け巡り……大阪市阿倍野区天王寺町南2丁目の
高松交差点の角。アルミサッシの窓が嵌め込まれた
大きな地蔵堂に「八反田一願地蔵菩薩」、右側には
大慈悲阿弥陀如来」とも書かれており、どっちやねん? 
両方、正解です。左脇に1体、センターに本尊である
オリジナルの「八反田地蔵尊」が祀られていました。
江戸時代、東成郡天王寺村で開発された新田(八反田)に
置かれていた地蔵尊が、石堂に再建されたのは元治元年
(1864)。石工の小西屋喜兵衛の手によるのでしょうか。
その後、昭和62年(1987)秋、仏教学者(?!)の鑑定の
結果、地蔵菩薩ではなく、阿弥陀如来であったことが
判明。翌63年(1988)2月には、新しく「八反田地蔵尊」が
造られ、開眼供養が営まれたそうです。つまり、地蔵堂
内に、新・地蔵尊と、旧・地蔵尊(実は阿弥陀如来)が
仲良く並んで立っているのでした。単なる剃髪でなく、
肉髻が明らかなので、何故に阿弥陀を地蔵と呼び習わして
きたのか? 逆に、その経緯が謎に思われるところ……
ぼくの近所の「沖向地蔵尊」も、地蔵を中尊にして、脇を
阿弥陀如来と勢至菩薩が務める不思議な三尊像ですが。

テーマ : 仏教・佛教
ジャンル : 学問・文化・芸術

tag : 仏像

下高野街道(1)

2023_03_15_庚申街道 「北区ぶらぶら」つながりで、Kさんらに紹介されまして、
 3月15日(水)、歴史街道ウォーク下高野街道(1)」に
 参加しましたよ。10時にJR寺田町駅の南口を出発です。
 (その前に、ぼくは北口で駅スタンプを押していました)
 下高野街道(別名:田辺街道)の本来の起点は
 「四天王寺」ですが、今回のコースは寺田町から南下。
 「八反田地蔵尊」を見仏しています (後日、別記事にて)
 JR大和路線は過ぎていますが、JR阪和線や近鉄・
 南大阪線が交錯しており、頭の中で整理が必要。
 近鉄・河堀口駅の手前からガードに沿って、JR美章園
 駅まで南下します。美章園杭全線を横断した頃から、
 迷走が始まり、「榎神社」(大阪市東住吉区北田辺
 1−8)を探し当てるのに、一苦労しました。「白雲寺
 (大阪市東住吉区北田辺4−10−33)にお邪魔した後、
 (地図が誤っていたため)松虫通を庚申街道と取り違える
参加者が続出し、松虫通を渡ったら渡ったで、Osaka Metro・谷町線の田辺駅まで
行き過ぎそうになるし……因みに、田辺駅は高速道路と同時に建設されたことから、
地上階に改札口が在ります。無事に後戻ると、庚申街道を東進。少し北に上がって、
近鉄・北田辺駅で解散しています。昼食に入った「そば喜」(大阪市東住吉区駒川
1−5−14)では、蕎麦が売り切れ。よく冷えたビールを呑みながら、冷や奴と板わさを
摘まみました。北田辺駅の「開高健 文学碑」に、旧友・Sさんを思い出すこと しばし。

参考記事:大阪市 ― 下高野街道

テーマ : 史跡
ジャンル : 学問・文化・芸術

tag : 史跡仏像蕎麦豆腐小説

将棋駒 in 大阪

歴史探偵の頭の中が、むずむずと痒くなりました。
最初、大坂と天童織田藩の関係に気を取られて、
豊臣秀吉や織田信長も将棋を愛好していたか、
さらなる藪の中に迷い込みそう……Google
検索すると、がっちりと手応えを得て、にんまり。
江戸時代から、大阪(大坂)は将棋駒の製造が
盛んで、地場産業としての成立を確信できました。
       ☆
『上方[復刻版]31号』(新和出版)
 ――江崎政忠「将棋の駒」
徳川幕府末世より今日に至る迄、我国全般に将棋駒を製造、供給、販売せる処は、山形県天童町と、我大阪市との二ケ所に限られたるものなり。
大阪は主として広く公衆需要に応ずべき、所謂並製品を主とし
・(昭和七年三月に締結した将栄会将棋駒同業者組合契約書によると)其組合員総て11名にして、何れも天王寺を中心として居住し、其家庭に於て執業するものなり
       ☆
尾本惠市/編著『日本文化としての将棋』(三元社)
 ――増川宏一著「江戸時代の将棋」
大阪城跡、高槻城跡からも将棋駒が発見されている。
 ――熊澤良尊著「水無瀬駒を探る-将棋駒・その伝統と文化について」
江戸時代では、商業や流通が発達し広く町人文化が興る中で、将棋人口は増大し、大坂・京・江戸辺りで駒づくりの専門職人が派生して生産が拡大する。
       ☆
堀田暁生/編『大阪の地名由来辞典』(東京堂出版)
【唐物町】 江戸時代の記録(『難波丸綱目』)によると、この町には将棋駒・革細工・皮足…(中略)など多様な職種の者が居住していたことがわかる
       ☆
『将棋展 将棋の文化とさまざまな将棋駒』(大阪商業大学商業史博物館)
【展示品で観る将棋駒の鑑賞法】
大阪独特の伝統的な彫り駒にごんたがある。彫りが深く、書体も個性的なことが特徴である。また、大阪での駒作りは、天童のそれより古い歴史がある。
        ☆
山形県天童市HP「天童と将棋駒
明治末期から大正時代になると天童や大阪等の産地で大量生産の体制に入り
大阪は天童以前の大衆駒の生産地であった
大阪彫り
米沢藩は大阪から駒師を招聘して駒造りが行われた

テーマ : 史跡
ジャンル : 学問・文化・芸術

tag : 史跡

幸延納豆

関東の池田弥三郎(1914~1982)に対しては、
長谷川幸延(1904~1977)に関西の納豆事情を
語ってもらいましょうか。個人的に、「関西人は
納豆嫌い
」という謬見が、いつ頃から、どのように
発生してきたのか? 興味をそそられる問題では
ありまして……間違いなく、近代納豆と関係有り。
       ☆
 【西】 昔から、納豆(なっと)と豆腐は、字が入れ変ったのだというのは面白い。納豆はともかく、とうふは決して豆の腐ったものではない。が、納豆とは、大寺では厨房のことを納所(なっしょ)といい、僧侶の蔑称に納所坊主・味噌すり坊主などという。その台所で造られたのがはじめなので納豆というのだとある。とすれば、京の大徳寺納豆など、その尤(ゆう)なるものであろう。
 これで東西は極まった。水戸納豆・浜納豆などいろいろあるが、大徳寺納豆の壮大さには近づけない。もっとも、桶や樽に納
(い)れて造るから納豆だという説もあるにはあるが……面白くない。
 私の心易い地唄の師匠がある。内弟子の女の子に三味線を教えている。カンが悪くて、いくら教えてもダメである。
「あかん。何んぼ教えても、お前
(ま)はんは、糸引かん納豆みたいな女や……」
 ポツポツ切れる三味線を、糸を引かない納豆にたとえて叱っているのである。
 納豆に醤油をいれ、きざみ葱
(ねぎ)とからしを加えて、長い箸でかきまわす。かきまわすほどに納豆はぬめりが出て、かき上げると長い長い糸をひく。糸ひき納豆の名のあるところ。全く、糸を引かん納豆では味にも話にもならないのである。
 この時、卵を入れる向きもあるが、私はやっぱり一物一味、納豆そのものだけがよいと思う。卵の、ことに白身まで入れると、糸も引きにくいし、味もうすくなる。すき焼のとき、べつに卵を割って、それをくぐらせて食べる向きもあるが、これと同じく、熱いのをふきふき、ジカに食べるところに、すき焼の味はあるのである。
 納豆汁――も、冬のものだ。納豆をすりつぶし、キザミ葱だけ入れて、みそしるにするのである。室住徂春に
   納豆汁このごろ君に佳句ありや
 長谷川伸の座敷にかけた、横額が思い出される。


参考文献:池田弥三郎×長谷川幸延『味にしひがし』(土屋書店)

テーマ : ご当地グルメ
ジャンル : グルメ

tag : 納豆

弥三郎納豆

池田弥三郎(1914~1982)と長谷川幸延
(1904~1977)が繰り広げた、関東と関西の
食べ物の味比べ――いよいよ、納豆編です。
       ☆
 【東】 東京の下町には、朝早く納豆売りが来た。としよりか、少年であった。
 東京の、下町の、大正時代のティピカルな生活を描いた、「茶目子の一日」という、レコードがあった。今でいう、ベスト・セラーものだった。その茶目子が目を覚すと、
  向うの横丁から、いつものお婆さんが、納豆、納豆、納豆。納豆、みそ豆、とやって来る。
 というわけだ。
 入れものを出すと、納豆屋さんは、つとから納豆をそれに入れて、からしをたっぷりつけてくれた。
 納豆も、からしに、醤油でたべるだけだったが、これもいつしか上方風にぜいたくになって、ねぎをきりこんだり、卵のきみをいれたりして、小料理屋で出すようになった。そんな納豆で、一品何百円もとられるのだから、納豆には全くお気の毒だ。納豆ぐらいは、貧しい食膳のたべものとして、残しておいてもらいたいものだ。
 東北の、それも山形、秋田あたりの、納豆汁はたいへんうまい。いつかそのことを書いたら、山形県出身のおえら方に、お前のは違うと文句をつけられた。わたしは秋田県の角館
(かくのだて)で、時期はずれだったが、わざわざ、ご馳走になったものだ。納豆をすりつぶして、油揚げを切りこんだだけのおつけだ。うまかった。
 関東の納豆も、東京の湯島の天野屋のものなどは、豆が大粒で、わたしには水戸納豆の小粒のものよりも、この方がうまいと思うが、どうも味の点は、結局好き好きで、水戸ッぽうを怒らしては、関東の同士討ちになる。
 どうも、関東は、登場するたべものが貧乏臭いけれども、ものの味は、なにも上方の懐石料理が最高というわけではない。なにか、いっそそんなら一万円札を揚げて食ったらどうか、と言いたくなるようなものより、どれほどいいか、しれやあしない。


参考文献:池田弥三郎×長谷川幸延『味にしひがし』(土屋書店)

テーマ : ご当地グルメ
ジャンル : グルメ

tag : 納豆

ちいやん

ピカソとその時代」展に圧倒された状態で、「国立国際2023_03_10_牛煮炊きとおばんざい「ちいやん」
美術館」B2階・展示室に上がり、メル・ボックナー(1940
~)の特集展示を眺めています。 コンセプチュアル・アート
A Theory of Sculpture (Counting) & Primer
は難しいことを考えず、癒やされればよいように思います。
ぼくは、同時代の植松奎二石、ロープ、人」(1974)が
大好きです。もう、17時を回っていました。昼時分から
営業を続けている 牛煮炊きとおばんざいちいやん
(大阪市西区土佐堀1−4−1)に入店すると、ホッピーを
呑み、名物 “牛煮炊き” に 豆腐と煮玉子を付け足して
頂きます。昼吞みが可能な上、夜も定食を食べられるのは
良いなあ。この店は桜餅で締めました。土佐堀川を越え、
堂島川の左岸を東進。振り向けば、西の空に宵の明星が
輝いていました。「中之島ガーデンブリッジ」を渡って、
堂島新地~曽根崎新地を縦断。大阪駅前ビルへ向かおう。

テーマ : ご当地グルメ
ジャンル : グルメ

tag : 美術呑む豆腐

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歌わない詩人、喰えない物書き。
たまに「考える人」、歴史探偵。
フードビジネス・コンサルタント
(自称)。
好きな言葉は「ごちそうさま」。

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