塩打大豆は不及力
安楽庵策伝(1554〜1642年)『醒睡笑』の中から、「座禅大豆」なるものを以前(2011年11月「座禅大豆」参照)紹介した。今回は「塩打大豆」を取り上げよう。「塩打(えんだ)大豆」とは塩打ち豆、塩豆のこと。「塩豆」を『広辞苑』で引くと、「乾燥したエンドウなどを塩水につけたのち、炒ったもの」とある。『醒睡笑』では「大豆」の文字が使われているので、大豆を塩味で炒った物か。同書「巻之三」のテーマは、文字知り顔。漢字の知識がないのに、知ったかぶりをする失敗談が集められている。
「振舞なかばに、亭主、『塩打大豆(えんだだいづ)、塩打大豆』と呼びければ、塩打豆(しおうちまめ)を持ちて出でけり。また一度呼ぶ時、『いや、無し』と申したれば、『不及力(ふぎゅうりき)、不及力』とうなづきたり。客大いに感じ、家に帰りて人を請じ、次第を忘れ、始めに『不及力を出せ』といふ。塩打豆を出せり。かさねて乞ふに、『もはや無い』とこたふる。『塩打大豆、塩打大豆』と。あとをさきへ、入らぬ文字あつかひや」

落語のネタ本といわれる『醒睡笑』だけあって、噺家の語りが聞こえてきそうな小咄。接待を受け、ホストのちょっと気取った言葉遣いに感心した、おっちょこちょいの主人公。「塩打豆(えんだだいず)」、「不及力(ふぎゅうりき)」の言葉の響きにいたく感心した模様。だが、音で覚えて意味がわかっていないため、真似しようとしても、全く逆に言い違えてしまう失敗談。にしても「不及力を出せ」とぼけられて、ちゃんと塩打豆を用意する家人が偉いですね。
同じ「巻之三」から、不文字(=文字・漢字の知識が無いこと)にまつわるエピソードを。山奥の田舎者が、夜分の寄り合いで出された餅に対して「夜食を取り過ぎると身体に毒だ」と諭されるのを聞き、「夜食」を餅のことだと勘違い。在所に帰ってきなこ餅を振る舞われると、「夜食を多く取ると身体に毒なんだぜ」と格好つけて言っちゃうのね。真っ昼間だというのに。
「小豆餅のあたたかなるを、夜咄のもてなしに出す。その席に、奥山の者ありし。中老ほどの人、餅を見る見る、『とかく夜食はおほく食ふが毒にてある』よしいふを聞き、『さては餅のことぞ』とおもひ、かの山賎 在所にて、昼の雑掌に大豆の粉をそへ餅をいだす時、『かまへてみなお聞きあれ。さる人のいはれしが、この夜食はおほく食ふが毒にて候』と」
参考文献:安楽庵策伝『醒睡笑(上)』(岩波文庫)
「振舞なかばに、亭主、『塩打大豆(えんだだいづ)、塩打大豆』と呼びければ、塩打豆(しおうちまめ)を持ちて出でけり。また一度呼ぶ時、『いや、無し』と申したれば、『不及力(ふぎゅうりき)、不及力』とうなづきたり。客大いに感じ、家に帰りて人を請じ、次第を忘れ、始めに『不及力を出せ』といふ。塩打豆を出せり。かさねて乞ふに、『もはや無い』とこたふる。『塩打大豆、塩打大豆』と。あとをさきへ、入らぬ文字あつかひや」

落語のネタ本といわれる『醒睡笑』だけあって、噺家の語りが聞こえてきそうな小咄。接待を受け、ホストのちょっと気取った言葉遣いに感心した、おっちょこちょいの主人公。「塩打豆(えんだだいず)」、「不及力(ふぎゅうりき)」の言葉の響きにいたく感心した模様。だが、音で覚えて意味がわかっていないため、真似しようとしても、全く逆に言い違えてしまう失敗談。にしても「不及力を出せ」とぼけられて、ちゃんと塩打豆を用意する家人が偉いですね。
同じ「巻之三」から、不文字(=文字・漢字の知識が無いこと)にまつわるエピソードを。山奥の田舎者が、夜分の寄り合いで出された餅に対して「夜食を取り過ぎると身体に毒だ」と諭されるのを聞き、「夜食」を餅のことだと勘違い。在所に帰ってきなこ餅を振る舞われると、「夜食を多く取ると身体に毒なんだぜ」と格好つけて言っちゃうのね。真っ昼間だというのに。
「小豆餅のあたたかなるを、夜咄のもてなしに出す。その席に、奥山の者ありし。中老ほどの人、餅を見る見る、『とかく夜食はおほく食ふが毒にてある』よしいふを聞き、『さては餅のことぞ』とおもひ、かの山賎 在所にて、昼の雑掌に大豆の粉をそへ餅をいだす時、『かまへてみなお聞きあれ。さる人のいはれしが、この夜食はおほく食ふが毒にて候』と」
参考文献:安楽庵策伝『醒睡笑(上)』(岩波文庫)
大豆飴
「だいずあめ」と読んではいけない。「大豆飴」は「まめあめ」と読むのである。れっきとした北陸、石川県七尾市の名物である。大豆飴の発祥には諸説あるようだが、最も古い説を採ると、鎌倉時代にまでさかのぼるらしい。
昭和3年(1928)に編まれた『石川県鹿島郡史』に「地頭に任命された長谷川信連が“能登の味”として源頼朝に献上した」との口伝が記されている。時代が下り、室町時代の頃の七尾市は能登畠山氏によって統治されていた。能登畠山氏といえば、畠山義統(3代)や義総(7代)が連歌集を編纂したように、都の文化を多く取り入れ、「小京都」と呼ばれる城下町を形成。華やかな商人文化や、石臼に代表される卓越した技術に裏打ちされて、高級菓子「大豆飴」が花開いた。
加賀藩主前田氏の祖、前田利家(1537〜1599)もまた太閤・豊臣秀吉に大豆飴を献上したという。さらに(現・七尾市の)府中町惣代肝煎が、加賀藩第2代藩主・前田利常(1594〜1658)へ献上した物のひとつとして「まめあめ」の文字が見られ、藩主献上品として伝えられてきた「大豆飴」の歴史が垣間見える。現代に伝えられる大豆飴の基本的な製法を見る限り、水飴と大豆の粉(きな粉)を練り合わせて作っている。形状は棒状や一口大サイズなど、製造所によって差異がある。きな粉や、振りかけて食べる抹茶粉などを作る際には、かつて石臼が活躍したのであろうと容易に想像できる。
余談になるが、昔日、京阪神の豆腐業へ流入してきたという北陸の人たちも、石臼文化圏に属していた影響の下にあって、豆腐作りという工程に親しみ易かったのではなかろうか。
ところで石川・七尾市は、安土・桃山時代から江戸時代初期にかけての絵師、長谷川等伯(1539〜1610)の生地でもある……活躍年代が、前田利家とほぼ被る。等伯は「小京都」と呼ばれ栄えた七尾で、その画才を開花させ、中央画壇でも高評価を受けるようになった訳だが、独特の風味と香ばしさで、茶会の席などに重宝された大豆飴の発展と軌を一にするようではないか。
七尾市では毎年、この時期(1月〜3月上旬)になると、「長谷川とうふ伯グルメ博覧会」が開催されている。「とうふ伯」は「等伯」の洒落だが、元々七尾市(含めて北陸)が豆腐と縁深くなければ、単なる語呂合わせに終わる。大豆〜豆腐とのつながりが濃い土地柄だったからこそのイベントなのだ。同博覧会では期間中、七尾市内の飲食店で、同市で作られた豆腐を元にした数々のメニューが提供される。
昭和3年(1928)に編まれた『石川県鹿島郡史』に「地頭に任命された長谷川信連が“能登の味”として源頼朝に献上した」との口伝が記されている。時代が下り、室町時代の頃の七尾市は能登畠山氏によって統治されていた。能登畠山氏といえば、畠山義統(3代)や義総(7代)が連歌集を編纂したように、都の文化を多く取り入れ、「小京都」と呼ばれる城下町を形成。華やかな商人文化や、石臼に代表される卓越した技術に裏打ちされて、高級菓子「大豆飴」が花開いた。
加賀藩主前田氏の祖、前田利家(1537〜1599)もまた太閤・豊臣秀吉に大豆飴を献上したという。さらに(現・七尾市の)府中町惣代肝煎が、加賀藩第2代藩主・前田利常(1594〜1658)へ献上した物のひとつとして「まめあめ」の文字が見られ、藩主献上品として伝えられてきた「大豆飴」の歴史が垣間見える。現代に伝えられる大豆飴の基本的な製法を見る限り、水飴と大豆の粉(きな粉)を練り合わせて作っている。形状は棒状や一口大サイズなど、製造所によって差異がある。きな粉や、振りかけて食べる抹茶粉などを作る際には、かつて石臼が活躍したのであろうと容易に想像できる。
余談になるが、昔日、京阪神の豆腐業へ流入してきたという北陸の人たちも、石臼文化圏に属していた影響の下にあって、豆腐作りという工程に親しみ易かったのではなかろうか。
ところで石川・七尾市は、安土・桃山時代から江戸時代初期にかけての絵師、長谷川等伯(1539〜1610)の生地でもある……活躍年代が、前田利家とほぼ被る。等伯は「小京都」と呼ばれ栄えた七尾で、その画才を開花させ、中央画壇でも高評価を受けるようになった訳だが、独特の風味と香ばしさで、茶会の席などに重宝された大豆飴の発展と軌を一にするようではないか。
七尾市では毎年、この時期(1月〜3月上旬)になると、「長谷川とうふ伯グルメ博覧会」が開催されている。「とうふ伯」は「等伯」の洒落だが、元々七尾市(含めて北陸)が豆腐と縁深くなければ、単なる語呂合わせに終わる。大豆〜豆腐とのつながりが濃い土地柄だったからこそのイベントなのだ。同博覧会では期間中、七尾市内の飲食店で、同市で作られた豆腐を元にした数々のメニューが提供される。
地大豆とは何か?
地域在来の大豆のことを「地大豆」「在来大豆」と呼ぶ。地産地消が要請される時代だから、地大豆がクローズ・アップされる機会も多くなっているが、何をもって地大豆と呼ぶかは微妙な場合もままある。2010年5月に実施されている「宇宙大豆プロジェクト」では、全国16都道府県から寄せられた20種類の地大豆が、国際宇宙ステーション(ISS)「きぼう」の日本実験棟へ打ち上げられた。
内訳を見ると、1)北海道(トヨコマチ)、2)青森(毛まめ)、3)山形(秘伝、紅大豆)、4)埼玉(借金なし)、5)東京(東京八重生)、6)千葉(日向大豆)、7)神奈川(津久井在来)、8)静岡(這豆)、9)山梨(ナカセンナリ)、10)長野(ナカセンナリ)、11)三重(鶏頭大豆)、12)奈良(宇陀黒大豆、かぐや姫大豆)、13)広島(アキシロメ、黄粉大豆)、14)熊本(水前寺もやし、夏大豆)、15)鹿児島(フクユタカ)、16)沖縄(青ヒグ、クモーマミ)――の20種類である。
地大豆というと、なぜかしらローカルでマイナーな存在を想像してしまいがちなのだが、ナカセンナリ、アキシロメ、フクユタカなど、「産地品種銘柄」に指定されるものもある。地大豆だからといって、或る一特定地域でしか栽培されないといったものではないことに要注意。品種登録がまだ行われていない場合などにおいては、同じ大豆であっても、異なる地方で、異なる名称で栽培されているといった状況があり得る。ややこしい話になるが、有名な例を挙げると、「丹波黒」は品種名(1941年に命名)だが、その在来種も「丹波黒」「丹波黒大豆」「黒豆」「波部黒」などと呼ばれている。
「宇宙大豆」も含めて、全国各地の地大豆の名称を「Google」で検索し、別表にまとめた。数は極々絞り込んであるが、日本の地大豆は300種類以上あると言う人もいて、どこまでも奥の深い世界ではある。
内訳を見ると、1)北海道(トヨコマチ)、2)青森(毛まめ)、3)山形(秘伝、紅大豆)、4)埼玉(借金なし)、5)東京(東京八重生)、6)千葉(日向大豆)、7)神奈川(津久井在来)、8)静岡(這豆)、9)山梨(ナカセンナリ)、10)長野(ナカセンナリ)、11)三重(鶏頭大豆)、12)奈良(宇陀黒大豆、かぐや姫大豆)、13)広島(アキシロメ、黄粉大豆)、14)熊本(水前寺もやし、夏大豆)、15)鹿児島(フクユタカ)、16)沖縄(青ヒグ、クモーマミ)――の20種類である。
地大豆というと、なぜかしらローカルでマイナーな存在を想像してしまいがちなのだが、ナカセンナリ、アキシロメ、フクユタカなど、「産地品種銘柄」に指定されるものもある。地大豆だからといって、或る一特定地域でしか栽培されないといったものではないことに要注意。品種登録がまだ行われていない場合などにおいては、同じ大豆であっても、異なる地方で、異なる名称で栽培されているといった状況があり得る。ややこしい話になるが、有名な例を挙げると、「丹波黒」は品種名(1941年に命名)だが、その在来種も「丹波黒」「丹波黒大豆」「黒豆」「波部黒」などと呼ばれている。
「宇宙大豆」も含めて、全国各地の地大豆の名称を「Google」で検索し、別表にまとめた。数は極々絞り込んであるが、日本の地大豆は300種類以上あると言う人もいて、どこまでも奥の深い世界ではある。

はつさやか
豆腐加工に適した大豆の新品種「はつさやか」を、(独)農研機構・近畿中国四国農業研究センターが育成した──現行の主力品種「フクユタカ」より早生で、青立ち(収穫適期でも茎葉が枯れずに残る障害)や子実の裂皮が少ない。四国地域で主に栽培されているフクユタカは、収穫期が遅いことから後作の小麦の播種が遅れるなどの支障がある。また、一部の県で奨励品種に採用された「サチユタカ」はフクユタカより早生だが、青立ちが発生しやすく、適期にコンバインでの収穫が困難になる場合があるほか、品質面でも子実の裂皮が多発するなどの問題を抱えているため、生産者から早生の品種が強く望まれていた。
このたび育成された新品種、はつさやかはフクユタカよりも早生で、コンバインによる適期収穫が可能なことから、大豆─麦二毛作体系を確立し、土地利用率と農家収益を高められる。現在、香川県だけでなく、サチユタカの作付けの多い中国地方のうち島根県においても、はつさやかの導入に向けた取り組みが進められている(島根ではJAやすぎが2013年から種子を配布)。

はつさやかは、たんぱく質含量が高く豆腐加工適性の優れる「九州116 号」が母、耐倒伏性で多収の「タチナガハ」が父から成る交配組み合わせから育成された。成熟期はサチユタカより4日程度、フクユタカより2週間程度早くなる。収量性(子実量=1アール当たり32.5キログラム、百粒重=29.2グラム)も高く、サチユタカと同程度。また青立ちの発生が少ないため、適期にコンバイン収穫できる。故に、大豆─麦二毛作体系に対応可能とした。子実の外観品質についても、裂皮やしわが少なく、良好。
さらに、はつさやかはたんぱく質含有量(粗たんぱく質含有率=44.6%)が高く、豆腐加工適性に優れている。豆腐の硬さを示す指標である破断応力を見ても、はつさやかは1平方センチメートル当たり71グラムで、サチユタカ(=同39グラム)、フクユタカ(=同64グラム)よりしっかりした豆腐ができる。実需者による官能評価も食感、風味ともに良く、味噌、煮豆、納豆用途についても良い評価を得られているという。
このたび育成された新品種、はつさやかはフクユタカよりも早生で、コンバインによる適期収穫が可能なことから、大豆─麦二毛作体系を確立し、土地利用率と農家収益を高められる。現在、香川県だけでなく、サチユタカの作付けの多い中国地方のうち島根県においても、はつさやかの導入に向けた取り組みが進められている(島根ではJAやすぎが2013年から種子を配布)。

はつさやかは、たんぱく質含量が高く豆腐加工適性の優れる「九州116 号」が母、耐倒伏性で多収の「タチナガハ」が父から成る交配組み合わせから育成された。成熟期はサチユタカより4日程度、フクユタカより2週間程度早くなる。収量性(子実量=1アール当たり32.5キログラム、百粒重=29.2グラム)も高く、サチユタカと同程度。また青立ちの発生が少ないため、適期にコンバイン収穫できる。故に、大豆─麦二毛作体系に対応可能とした。子実の外観品質についても、裂皮やしわが少なく、良好。
さらに、はつさやかはたんぱく質含有量(粗たんぱく質含有率=44.6%)が高く、豆腐加工適性に優れている。豆腐の硬さを示す指標である破断応力を見ても、はつさやかは1平方センチメートル当たり71グラムで、サチユタカ(=同39グラム)、フクユタカ(=同64グラム)よりしっかりした豆腐ができる。実需者による官能評価も食感、風味ともに良く、味噌、煮豆、納豆用途についても良い評価を得られているという。
麹菌とテンペ菌のプロテアーゼ活性
味噌・醤油の醸造に使用されている麹菌(Aspergillus属)とテンペ菌(Rhizopus属)を蒸米と蒸煮大豆の原料に生育させ、主に大豆たんぱくの分解に関与すると考えられる各種酵素の活性を中心に、両菌株の間で比較検討を加えた。テンペとは周知のとおり、インドネシアの無塩発酵大豆食品。生育量(菌糸の量)の指標となるグルコサミン量については、大豆麹のグルコサミン量が米麹の2倍前後ある。また麹菌、テンペ菌とも、蒸米より蒸煮大豆の方が生えやすい。

(麹菌など)アスペルギルス属の生育や酵素生産のためには、C/N比――原料中の炭水化物(C源)と窒素(N源)の割合――が重要になる。米麹の原料白米はC源が多く、N源は少ない。逆に大豆麹はN源が多く、C源が不足する。N源が増すとアルカリ性や中性プロテアーゼの生産も増加するが、酸性プロテアーゼは減少する。米麹のプロテアーゼの主体が酸性プロテアーゼであるのは、N源が少なくC/N比が高いため。大豆麹ではC/N比が極めて低いため、中性〜アルカリ性プロテアーゼが主体を占める。
一方で、(テンペ菌など)リゾープス属の米麹では酸性プロテアーゼが特に高く、大豆麹では酸性〜中性プロテアーゼの差異が見られない。アルカリ性プロテアーゼについては、米麹、大豆麹とも低い。よって、リゾープス属はアスペルギルス属と異なり、米や大豆など原料のC/N比が異なっても、プロテアーゼのバランスに変化はないとみられる。
【注】グルコサミン(C6H13NO5)とは、グルコース(ブドウ糖。別名デキストロース)の一部の水酸基がアミノ基に置換されたアミノ糖のひとつ。麹菌やテンペ菌の菌糸には、グルコサミンが含まれている。また、プロテアーゼはたんぱく質分子のペプチド結合を加水分解する酵素。
参考文献:今野宏さん((株)秋田今野商店社長)の特別講演「日本人の食生活を守る大豆発酵食品の歴史と役割」より

(麹菌など)アスペルギルス属の生育や酵素生産のためには、C/N比――原料中の炭水化物(C源)と窒素(N源)の割合――が重要になる。米麹の原料白米はC源が多く、N源は少ない。逆に大豆麹はN源が多く、C源が不足する。N源が増すとアルカリ性や中性プロテアーゼの生産も増加するが、酸性プロテアーゼは減少する。米麹のプロテアーゼの主体が酸性プロテアーゼであるのは、N源が少なくC/N比が高いため。大豆麹ではC/N比が極めて低いため、中性〜アルカリ性プロテアーゼが主体を占める。
一方で、(テンペ菌など)リゾープス属の米麹では酸性プロテアーゼが特に高く、大豆麹では酸性〜中性プロテアーゼの差異が見られない。アルカリ性プロテアーゼについては、米麹、大豆麹とも低い。よって、リゾープス属はアスペルギルス属と異なり、米や大豆など原料のC/N比が異なっても、プロテアーゼのバランスに変化はないとみられる。
【注】グルコサミン(C6H13NO5)とは、グルコース(ブドウ糖。別名デキストロース)の一部の水酸基がアミノ基に置換されたアミノ糖のひとつ。麹菌やテンペ菌の菌糸には、グルコサミンが含まれている。また、プロテアーゼはたんぱく質分子のペプチド結合を加水分解する酵素。
参考文献:今野宏さん((株)秋田今野商店社長)の特別講演「日本人の食生活を守る大豆発酵食品の歴史と役割」より
座禅大豆
安楽庵策伝(1554〜1642年)『醒睡笑』「巻之六」の内容は、児(ちご)の噂。天台・真言宗などの寺院には、児と称する童子がいた。僧侶の男色の対象とされ、「児(ちご)」は寵愛する少年の呼び名にもなったという。
同時代には、“児物語”と称する同性愛を綴った(現代で言うところのBLか)小説も出現している。もっとも、児の噂がすべて男色ネタということもなく、欲を張っての失敗談など、微笑ましい話柄にも事欠かない。
ある法師のもとより、二人おはして遊ばるる児のもとへ、座禅大豆を少し送りたりしことあり。大児(おおちご)嬉しげに手を出し、憚らずつかまんとしけるを、小児ちやくと手をとらへ、「そのやうに不得心な風情、陰より人の見る目をもかへりみ給へ」とて、箸を二膳とり来り、一膳を渡し、「大児役に、そなたは二粒づつおまゐれ。われは小児役に、一粒づつ給はらん」といふ。はさむに、大児はともすればはさみはづし、小児の矢さきはづれず、ほしりほしりと当りしことよ。
ある法師が2人の童子に座禅大豆を送り届けた。(年齢か、体格かはわからないが)大きな童子が喜んで、豆を手づかみに食べようとしたところ、小さな童子が邪魔をした。他人の目もあるかもしれないのに、そういう無作法な食べ方はよろしくないとたしなめる。なるほど、ごもっとも。手づかみで勢いよく食い散らかせば、大児の取り分が多くなるだろうとの、こすっからい計算を内に秘め。小児の提案は、箸で食べようというもの。しかも「大児は大きいのだから、1回に2粒ずつ(箸で摘まんで)頂く。自分は小さいから1粒ずつ頂こう」と。目先の得に心弾ませ、箸を伸ばす大児だが、2粒同時に豆は摘まめず。一方で、しっかりと狙いどおりに1粒ずつ豆を摘まんで食する小児なのだった。
「座禅大豆」とは、黒大豆を甘く煮しめた物。座禅の時に食べると小用を少なくする効用があるとのいわれから、この名前が付いたとか。現在もいくつかの国語辞典等に、「座禅豆(ざぜんまめ、ざぜまめ)」の名を確認できる。黒大豆は、大豆の豊富な健康機能性成分に加え、ポリフェノールの一種、アントシアニンも含まれるため、何かと効能は多く、古人も漢方として使用するなどしていた。夜間頻尿の改善にも役立つらしいから、座禅の際にも具合が良かったのだろう。
参考文献:安楽庵策伝『醒睡笑(下)』
(岩波文庫)
同時代には、“児物語”と称する同性愛を綴った(現代で言うところのBLか)小説も出現している。もっとも、児の噂がすべて男色ネタということもなく、欲を張っての失敗談など、微笑ましい話柄にも事欠かない。
ある法師のもとより、二人おはして遊ばるる児のもとへ、座禅大豆を少し送りたりしことあり。大児(おおちご)嬉しげに手を出し、憚らずつかまんとしけるを、小児ちやくと手をとらへ、「そのやうに不得心な風情、陰より人の見る目をもかへりみ給へ」とて、箸を二膳とり来り、一膳を渡し、「大児役に、そなたは二粒づつおまゐれ。われは小児役に、一粒づつ給はらん」といふ。はさむに、大児はともすればはさみはづし、小児の矢さきはづれず、ほしりほしりと当りしことよ。

ある法師が2人の童子に座禅大豆を送り届けた。(年齢か、体格かはわからないが)大きな童子が喜んで、豆を手づかみに食べようとしたところ、小さな童子が邪魔をした。他人の目もあるかもしれないのに、そういう無作法な食べ方はよろしくないとたしなめる。なるほど、ごもっとも。手づかみで勢いよく食い散らかせば、大児の取り分が多くなるだろうとの、こすっからい計算を内に秘め。小児の提案は、箸で食べようというもの。しかも「大児は大きいのだから、1回に2粒ずつ(箸で摘まんで)頂く。自分は小さいから1粒ずつ頂こう」と。目先の得に心弾ませ、箸を伸ばす大児だが、2粒同時に豆は摘まめず。一方で、しっかりと狙いどおりに1粒ずつ豆を摘まんで食する小児なのだった。
「座禅大豆」とは、黒大豆を甘く煮しめた物。座禅の時に食べると小用を少なくする効用があるとのいわれから、この名前が付いたとか。現在もいくつかの国語辞典等に、「座禅豆(ざぜんまめ、ざぜまめ)」の名を確認できる。黒大豆は、大豆の豊富な健康機能性成分に加え、ポリフェノールの一種、アントシアニンも含まれるため、何かと効能は多く、古人も漢方として使用するなどしていた。夜間頻尿の改善にも役立つらしいから、座禅の際にも具合が良かったのだろう。
参考文献:安楽庵策伝『醒睡笑(下)』
若狭〜丹波のかて飯
「豆、小豆、麦やお芋とへだつれぞ 混ぜれば同じかて飯の種」という江戸の狂歌がある。豆とはもちろん大豆のこと。“かて飯”とは、少ないコメを食いのばすため、様々な雑穀や野菜、山菜や海藻などを混ぜて炊いたご飯。現代の炊き込みご飯、混ぜご飯のことであり、広義に取れば、麦飯や粟飯もかて飯だろう。
かて飯は、地域に根ざした伝統食だから、地方によって各種各様のかて飯が見られる。コメの代わりに地域にある食材を使用する訳だから、自然と地域色豊かなレシピの出来上がり。かつては必要に迫られての貧乏飯であったかもしれないが、飽食の時代を過ぎ、地産地消の叫ばれる現代、かて飯は新たな魅力を放ち始めているようにも思われる。
かて飯に大豆が使用されるのは全国的か。奥村彪生氏の解説『聞き書ふるさとの家庭料理』などから、大豆(加工品)を用いたかて飯を拾い上げてみる。
例えば、信越地方から福井県の豆腐野菜のぼっかけ飯。「ぼっかけ」は福井の郷土料理のひとつ。炊きたてのご飯に熱々の汁を「ぶっかける」という意味の「ぼっかけ」が料理名に転じた。代表的な具材としては、ゴボウ、ニンジンなどの根菜に(名産品でもある)油揚げ、糸こんにゃくなど。削り節を使い、具材を軟かくなるまで煮込み、醤油、酒などで味を調える。ここに豆腐を足せば、豆腐野菜のぼっかけ飯になる。
福井県と一口に言っても、ローカル色は細かく分岐。大量に作り、結婚披露宴の最後に客へ供されるぼっかけがある。蕎麦皿に盛り付けて食するとか。今立町では「ぼっかけ豆腐(豆腐めし)」として親しまれ、報恩講の夜食に出され、丹生郡でも同じ「豆腐めし」が伝わる。食の国境は政治と無縁。近畿地方でも、兵庫県に同じ名の豆腐飯が存在する。篠山市大山地区では「とふめし」と呼ぶ。古くは寺院での「お講」の際に振る舞われてきたという在り方も福井と同様。今も結婚式、彼岸、葬式、運動会など、大勢の人が集まる時には食卓に並ぶという。
とふめしのレシピは、堅めの木綿豆腐を茹でてつぶし、ゴボウ、ニンジン、油揚げを細かく刻む。だしなどを加え、醤油で炒めたものを炊きたてのご飯に載せ、十分ほど蒸らした後、混ぜ合わせる。具材を載せた後で混ぜるなど、調理法の細部に土地柄の違いが出ているが、根っこは同じだろう。篠山と言えば、黒豆の産地。京都府の黒豆のおにぎりも広い意味ではかて飯になるか。福井、兵庫、京都と呼べば、少し縁遠く感じるが、若狭、丹波と呼べば、意外に身近ではないだろうか。
参考文献:『食の検定 食農1級公式テキストブック』(食の検定協会)

かて飯は、地域に根ざした伝統食だから、地方によって各種各様のかて飯が見られる。コメの代わりに地域にある食材を使用する訳だから、自然と地域色豊かなレシピの出来上がり。かつては必要に迫られての貧乏飯であったかもしれないが、飽食の時代を過ぎ、地産地消の叫ばれる現代、かて飯は新たな魅力を放ち始めているようにも思われる。
かて飯に大豆が使用されるのは全国的か。奥村彪生氏の解説『聞き書ふるさとの家庭料理』などから、大豆(加工品)を用いたかて飯を拾い上げてみる。
例えば、信越地方から福井県の豆腐野菜のぼっかけ飯。「ぼっかけ」は福井の郷土料理のひとつ。炊きたてのご飯に熱々の汁を「ぶっかける」という意味の「ぼっかけ」が料理名に転じた。代表的な具材としては、ゴボウ、ニンジンなどの根菜に(名産品でもある)油揚げ、糸こんにゃくなど。削り節を使い、具材を軟かくなるまで煮込み、醤油、酒などで味を調える。ここに豆腐を足せば、豆腐野菜のぼっかけ飯になる。
福井県と一口に言っても、ローカル色は細かく分岐。大量に作り、結婚披露宴の最後に客へ供されるぼっかけがある。蕎麦皿に盛り付けて食するとか。今立町では「ぼっかけ豆腐(豆腐めし)」として親しまれ、報恩講の夜食に出され、丹生郡でも同じ「豆腐めし」が伝わる。食の国境は政治と無縁。近畿地方でも、兵庫県に同じ名の豆腐飯が存在する。篠山市大山地区では「とふめし」と呼ぶ。古くは寺院での「お講」の際に振る舞われてきたという在り方も福井と同様。今も結婚式、彼岸、葬式、運動会など、大勢の人が集まる時には食卓に並ぶという。
とふめしのレシピは、堅めの木綿豆腐を茹でてつぶし、ゴボウ、ニンジン、油揚げを細かく刻む。だしなどを加え、醤油で炒めたものを炊きたてのご飯に載せ、十分ほど蒸らした後、混ぜ合わせる。具材を載せた後で混ぜるなど、調理法の細部に土地柄の違いが出ているが、根っこは同じだろう。篠山と言えば、黒豆の産地。京都府の黒豆のおにぎりも広い意味ではかて飯になるか。福井、兵庫、京都と呼べば、少し縁遠く感じるが、若狭、丹波と呼べば、意外に身近ではないだろうか。
参考文献:『食の検定 食農1級公式テキストブック』(食の検定協会)
日蓮の「大豆御書」
日蓮(1222〜1282年)は日蓮宗(法華宗)の宗祖。現代も(形を変えて)強い影響力を及ぼしているように見えるのは、日蓮本人が生きた当時から、政治・社会と積極的に渡り合った姿勢が脈々と受け継がれているためだろうか。初期キリスト教の弾圧に対するリバウンドにも似るが、法難を受けるほどに激しく立ち上がる生き様を窺うと、激越な思想と人間とは切り離せないものだと感嘆するしかない。日蓮上人の思想・教義をたどろうとすれば、遺文を読み継ぐことになるだろう。蒙古襲来を予言したともいわれる「立正安国論」などを含む遺文は400を超えるとされ、中には「大豆御書」が残されている。短いので、本文全文を以下に引用する。
大豆一石かしこまつて拝領し畢んぬ。法華経の御宝前に申し上候、一渧の水を大海になげぬれば三災にも失せず。一華を五浄によせぬれば劫火にもしぼまず、一豆を法華経になげぬれば法界みな蓮なり、恐惶謹言。

文永7(1270)年、日蓮が49歳の時に記されている。本文の後に10月23日の日付と日蓮の花押が続く。花押の後に「御所御返事」と書かれているので、鎌倉幕府・執権につながるであろう高位の人から、大豆を供養されたことが推測される。本文へ戻ろう。尺貫法の単位である石は、コメで考えた場合、1石=10斗=100升=1,000合。コメ1合は約180グラムだから、大豆1石はコメ換算で約180キログラム。(1俵60キログラムとして)3俵分の大豆を日蓮がありがたく拝領し、法華経の前に供えた次第。この供養を讃仰する文言が後に連なる。
一滴の水を大海に投じれば、その水は三災(水災・火災・兵災)に遭っても消え失せることはない。一本の花を五浄居天に寄せておけば、劫火にしおれることもない。「五浄(居天)」とは色究竟天、善見天、善現天、無熱天、無煩天をいう……仏像の分類で見られる「天部」の「天」と同義か。一滴の水、一本の花も大いなるものに委ねることで、天変地異を免れるように、一粒の大豆だって法華経に捧げれば、人の前に表れるありとあらゆる世界のすべてで、蓮の花となって咲き乱れるだろう。七面倒な教義はよく知らないが、心掛けひとつで世界は変わると教え諭し、励ましてくれているようだ。
参考文献:『日蓮上人御遺文』(祖書普及期成会)
大豆一石かしこまつて拝領し畢んぬ。法華経の御宝前に申し上候、一渧の水を大海になげぬれば三災にも失せず。一華を五浄によせぬれば劫火にもしぼまず、一豆を法華経になげぬれば法界みな蓮なり、恐惶謹言。

文永7(1270)年、日蓮が49歳の時に記されている。本文の後に10月23日の日付と日蓮の花押が続く。花押の後に「御所御返事」と書かれているので、鎌倉幕府・執権につながるであろう高位の人から、大豆を供養されたことが推測される。本文へ戻ろう。尺貫法の単位である石は、コメで考えた場合、1石=10斗=100升=1,000合。コメ1合は約180グラムだから、大豆1石はコメ換算で約180キログラム。(1俵60キログラムとして)3俵分の大豆を日蓮がありがたく拝領し、法華経の前に供えた次第。この供養を讃仰する文言が後に連なる。
一滴の水を大海に投じれば、その水は三災(水災・火災・兵災)に遭っても消え失せることはない。一本の花を五浄居天に寄せておけば、劫火にしおれることもない。「五浄(居天)」とは色究竟天、善見天、善現天、無熱天、無煩天をいう……仏像の分類で見られる「天部」の「天」と同義か。一滴の水、一本の花も大いなるものに委ねることで、天変地異を免れるように、一粒の大豆だって法華経に捧げれば、人の前に表れるありとあらゆる世界のすべてで、蓮の花となって咲き乱れるだろう。七面倒な教義はよく知らないが、心掛けひとつで世界は変わると教え諭し、励ましてくれているようだ。
参考文献:『日蓮上人御遺文』(祖書普及期成会)
大豆ぬすみ
ユダヤ教やキリスト教などの西欧社会の厳格な一神教とは無縁の、緩やかで汎神論的な世界にたゆたっている日本では、いかなるモラルが要請されるべきだろうか。大陸から渡来した仏教や儒教道徳も、わが国においては骨抜きにされ、強い倫理的規範としては作用しなかった印象しかない。良い意味でも、悪い意味でも、適当な国なのだろう。
懐かしい話だが、ルース・ベネディクトは『菊と刀』
で、倫理基準を内面化した西欧文化を「罪の文化」と規定し、対する日本を「恥の文化」と名付けた。内的な原罪観念を持たない日本人は、世間体や外聞だけを気にし、拘泥していると穿った訳だ。しかし、狭苦しいムラ意識や党派根性を補正するために、昔の人たちは「お天道さまが見ている」みたいな言い方を漠然としてきたような気もする。自然に宿る八百万の神々に、やんわりと価値判断を委ねる風情が感じられないか。
見ているのは太陽だけではない。月だって見ている。『通俗仏教百科全書』は古くから伝わる説教話を集め、明治時代に編纂された書物。主に、大説教師・大行寺信暁が行った説教話が収められているようだ。その第3巻第45に「大豆ぬすみ」が位置する。
百姓・佐平の家は貧しく、夫は他国へ出稼ぎに行ったきり、帰って来ない。残された妻は3歳になる子供を抱え、賃仕事などを請け負うが、生活は貧苦を極める。貧すれば鈍するのか、皆が寝静まる丑三つ時に、親子は大豆畑へ忍び入り、大豆を盗もうとする。母親は子供に「あなたに食べさせようと思い、大豆を盗みに来たの。あなたは道に立って、誰か来ないか、見ていなさい」と言うと、畑の中へ入ると大豆のさやをむしって、袂の中に押し込んだ。

用を終えた母親が小声で見張りの子供に「誰も来なかったかい?」と聞けば、「誰ひとり来ないよ。お月さまが見ているだけ」との返答。
この言葉が胸にこたえた。母親はむしり取った大豆のさやを両袖に入れたまま、子供の手を引いて、大豆畑の所有者を夜分に訪ねる。起き抜けの主人に盗みの一部始終を白状し、「人は見ていなくても、天の日月が見ていることを恐れない心の在り方こそ恐ろしい」と懺悔の涙を流した。ひれ伏す母親の姿を前に、畑の持ち主も自分自身の心の内を省みて、「盗んだ豆は子供に与えてください」とお願いした。
子供とは何者か—-天は直接言葉でもって語らないから、人の口を借りたのではないか。母親とは何者か—-子供のたった一言によって悪心を改めるとは、まさしく仏法に帰依する善女人ではないかと、彼も悟ったのだ。ばれなければよいのではない。(人間以外の)何者かは常に見ているのである。
参考文献:長岡乗薫編『通俗仏教百科全書』(開導書院)
懐かしい話だが、ルース・ベネディクトは『菊と刀』
見ているのは太陽だけではない。月だって見ている。『通俗仏教百科全書』は古くから伝わる説教話を集め、明治時代に編纂された書物。主に、大説教師・大行寺信暁が行った説教話が収められているようだ。その第3巻第45に「大豆ぬすみ」が位置する。
百姓・佐平の家は貧しく、夫は他国へ出稼ぎに行ったきり、帰って来ない。残された妻は3歳になる子供を抱え、賃仕事などを請け負うが、生活は貧苦を極める。貧すれば鈍するのか、皆が寝静まる丑三つ時に、親子は大豆畑へ忍び入り、大豆を盗もうとする。母親は子供に「あなたに食べさせようと思い、大豆を盗みに来たの。あなたは道に立って、誰か来ないか、見ていなさい」と言うと、畑の中へ入ると大豆のさやをむしって、袂の中に押し込んだ。

用を終えた母親が小声で見張りの子供に「誰も来なかったかい?」と聞けば、「誰ひとり来ないよ。お月さまが見ているだけ」との返答。
この言葉が胸にこたえた。母親はむしり取った大豆のさやを両袖に入れたまま、子供の手を引いて、大豆畑の所有者を夜分に訪ねる。起き抜けの主人に盗みの一部始終を白状し、「人は見ていなくても、天の日月が見ていることを恐れない心の在り方こそ恐ろしい」と懺悔の涙を流した。ひれ伏す母親の姿を前に、畑の持ち主も自分自身の心の内を省みて、「盗んだ豆は子供に与えてください」とお願いした。
子供とは何者か—-天は直接言葉でもって語らないから、人の口を借りたのではないか。母親とは何者か—-子供のたった一言によって悪心を改めるとは、まさしく仏法に帰依する善女人ではないかと、彼も悟ったのだ。ばれなければよいのではない。(人間以外の)何者かは常に見ているのである。
参考文献:長岡乗薫編『通俗仏教百科全書』(開導書院)
明治ビタミン戦争

乃木将軍の自刃は明治天皇の崩御を受けてのもの。表向きの理由は西南戦争(1877年)において連隊旗を奪われたことを償う旨とされるが、日露戦争(1904〜1905年)でも多くの兵(自身の長男・二男を含む)を失い、自責の念にさいなまれていた。確かに、乃木将軍率いる第3軍が旅順要塞攻略のために仕掛けた3回の総攻撃を通して、甚大な被害を被ったのは否定し得ない。加えて、司馬遼太郎の『殉死』や『坂の上の雲』により、乃木将軍「無能説」が大衆に根強く植え付けられることになる。
無能説の当否はともかく、様々な要因が複合・重層的に絡まり合って、戦争の勝敗は決する。例えば兵站。兵站といい、戦場といえども生活の場であるから、何より食料が問題だ。ところが往時の軍隊では、三食すべてに白米を充て、「江戸わずらい」「軍艦病」とも呼ばれた脚気が蔓延してしまう。
当時、脚気には栄養バランス説と細菌説があり、英国医学から学んだ海軍は白米食による栄養バランスの崩れではないかと忖度し、兵食改良に踏み切った。他方、ドイツ医学の強い影響下にあった陸軍軍医部は細菌説を採用(その急先鋒が森鴎外)。対症療法的な兵食改良論は「民間療法」と痛罵された。結果として日露戦争時の陸軍兵は戦死者6万人、傷病者38万人のうち2万1,400人が死亡、その大半が脚気患者だった。
鈴木梅太郎が明治43(1910)年にオリザニン、翌年にポーランド人学者・フンクがビタミン抽出に成功するのは、後の話だ。
対するロシア軍も悲惨だった。ロシア軍のステッセルが旅順開城した時、兵力3万6,000人、うち健康者は1万2,800人に過ぎない。要塞内に食料はまだ残されていたにもかかわらず、籠城中のロシア軍を苦しめたのは日本軍の砲弾以上に、ビタミン不足による壊血病だったという。
戦場となった中国東北部では元々大豆に親しみ、厳寒に襲われる冬季にもなれば、ビタミン補給源として大豆もやしを作ってきた。大豆種子内のでんぷんや脂肪、たんぱく質などは、発芽の際に加水分解されて、様々な栄養素に合成される。特にビタミンC、アスパラギン、アスパラギン酸、γ-アミノ酪酸(GABA)は一気に増加する。しかし大豆になじみのなかったロシア兵に、もやしの活用法まではわからない。ロシア軍が貯蔵されていた大豆からもやしを作ることを知っていたらば、ビタミンCを補給でき、その窮状はかなり改善されていただろうに。
明治の世の半年以上に及ぶ旅順要塞をめぐる攻防戦は、日露おのおの、脚気と壊血病を抱えてのハンデ戦でもあった。
参考文献:関川夏央『「坂の上の雲」と日本人』(文春文庫)