2004年産大豆の地方別品種別作付面積
農林水産省生産局農産振興課の調査で、2004年産大豆の品種別作付面積が明らかになった。前回、全国トータルでの調査結果を見たが、今回は地方別での調査結果を見てみよう。
地方別の品種別作付面積は、1位が北海道は「トヨムスメ」、東北は「リュウホウ」、関東は「タチナガハ」、北陸は「エンレイ」、東海は「フクユタカ」、近畿は「オオツル」、中・四国は「サチユタカ」、九州は「フクユタカ」となった。東海と九州の「フクユタカ」以外、すべて1位の品種が異なり、地域の特徴が表れている。
この調査では、静岡が関東に含まれ、中国と四国が統合されている。静岡(フクユタカ:495ヘクタール)を東海に含めても、関東の1位「タチナガハ」、東海の1位「フクユタカ」に変わりはない。中国と四国に分けると、中国の1位は「サチユタカ」(2,297ヘクタール)、また四国の1位は「フクユタカ」(1,153ヘクタール)。四国を含めて3地方で、豆腐用に最適といわれる「フクユタカ」が1位となった。
「フクユタカ」は広域適応性のある良質多収品種、草姿も良く倒伏にも強いため、密植栽培にも適応できるが、早播きの場合の耐倒伏性は“中”程度。褐斑粒の発生は極めて少ないが、ネコブセンチュウ、葉焼け病、さび病には強くない。豆腐・油揚げ用としては高評価だが、へその色が淡褐色であり、蒸煮した時やや堅く出来上がるため、煮豆にはあまり向かない。
地方別の品種別作付面積は、1位が北海道は「トヨムスメ」、東北は「リュウホウ」、関東は「タチナガハ」、北陸は「エンレイ」、東海は「フクユタカ」、近畿は「オオツル」、中・四国は「サチユタカ」、九州は「フクユタカ」となった。東海と九州の「フクユタカ」以外、すべて1位の品種が異なり、地域の特徴が表れている。
この調査では、静岡が関東に含まれ、中国と四国が統合されている。静岡(フクユタカ:495ヘクタール)を東海に含めても、関東の1位「タチナガハ」、東海の1位「フクユタカ」に変わりはない。中国と四国に分けると、中国の1位は「サチユタカ」(2,297ヘクタール)、また四国の1位は「フクユタカ」(1,153ヘクタール)。四国を含めて3地方で、豆腐用に最適といわれる「フクユタカ」が1位となった。
「フクユタカ」は広域適応性のある良質多収品種、草姿も良く倒伏にも強いため、密植栽培にも適応できるが、早播きの場合の耐倒伏性は“中”程度。褐斑粒の発生は極めて少ないが、ネコブセンチュウ、葉焼け病、さび病には強くない。豆腐・油揚げ用としては高評価だが、へその色が淡褐色であり、蒸煮した時やや堅く出来上がるため、煮豆にはあまり向かない。

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豆腐は何丁、売れているか? (2)
雲田康夫氏の『豆腐バカ 世界に挑む』に触発されて、総務省統計局の家計調査結果から、日本国内の家庭で豆腐が何丁消費されているかを概算した。
2004年は年間37億1,191万4,205丁、1日当たり1,014万1,842丁となった。同じようにして、最新のデータとなる2005年の家計調査結果を用いて試算すると、1世帯当たり(農林漁家世帯を除く全世帯)の豆腐購入数量72.31丁に、世帯数5,038万2,081戸を掛けて、年間36億4,312万8,277丁。これを365(日)で割って、1日当たり998万1,173丁。
くどいようだが、これはおよその家庭消費量であって、全豆腐消費量と異なり、業務用等を含む豆腐全体の市場規模とは一致しない。断った上で話を進めよう。
厚生労働省の発表した「許可を要する食品関係営業施設数」の豆腐製造業数(2005年3月末現在)は、1万3,452となっている。先ほどの家庭消費量をこの営業施設数で除すると、1軒の豆腐屋(=豆腐製造業の営業施設)は平均して1年間に27万824丁、1日に742丁販売しているという値が得られる。
1985年の話だが、雲田氏は「日本の路地裏にある豆腐屋さんは、1日500丁の製造販売が普通だから、年間13万8,000丁を販売する計算になる」と書いており、2005年の豆腐屋1日当たり742丁という数字も、当たらずとも遠からずといった感じではないだろうか。
また、農林水産省の「大豆のホームページ」から「1キログラムの大豆から11〜13丁の豆腐」ができるという知識を援用して俵数に換算してみると、1俵は60キログラムだから、日本の豆腐屋は平均して1年間に347.21〜410.34俵、1日に0.95〜1.12俵の大豆を使用していることになる。

参考文献:雲田康夫『豆腐バカ 世界に挑む』(光文社)
2004年は年間37億1,191万4,205丁、1日当たり1,014万1,842丁となった。同じようにして、最新のデータとなる2005年の家計調査結果を用いて試算すると、1世帯当たり(農林漁家世帯を除く全世帯)の豆腐購入数量72.31丁に、世帯数5,038万2,081戸を掛けて、年間36億4,312万8,277丁。これを365(日)で割って、1日当たり998万1,173丁。
くどいようだが、これはおよその家庭消費量であって、全豆腐消費量と異なり、業務用等を含む豆腐全体の市場規模とは一致しない。断った上で話を進めよう。
厚生労働省の発表した「許可を要する食品関係営業施設数」の豆腐製造業数(2005年3月末現在)は、1万3,452となっている。先ほどの家庭消費量をこの営業施設数で除すると、1軒の豆腐屋(=豆腐製造業の営業施設)は平均して1年間に27万824丁、1日に742丁販売しているという値が得られる。
1985年の話だが、雲田氏は「日本の路地裏にある豆腐屋さんは、1日500丁の製造販売が普通だから、年間13万8,000丁を販売する計算になる」と書いており、2005年の豆腐屋1日当たり742丁という数字も、当たらずとも遠からずといった感じではないだろうか。
また、農林水産省の「大豆のホームページ」から「1キログラムの大豆から11〜13丁の豆腐」ができるという知識を援用して俵数に換算してみると、1俵は60キログラムだから、日本の豆腐屋は平均して1年間に347.21〜410.34俵、1日に0.95〜1.12俵の大豆を使用していることになる。

参考文献:雲田康夫『豆腐バカ 世界に挑む』(光文社)
風船爆弾
こんにゃくの用途は、必ずしも食用とは限らない。こんにゃくの非食用利用の一例として、太平洋戦争末期に日本陸軍が北米大陸へ向けて放った「風船爆弾」が挙げられる。その正式名称を「ふ」号兵器という。
昭和19(1944)年11月から翌20(1945)年4月にかけて、福島県勿来、茨城県大津、千葉県一宮海岸の3か所から合計9,300発が打ち上げられている。水素を詰めた気球に15キログラム爆弾と焼夷弾をいくつかぶら下げた物を太平洋上空の偏西風に乗せて、米国本土攻撃を行うという気宇壮大な作戦だった。
ユーモラスな児戯にも似た兵器のようだが、9,300発のうち、推定1,000発が米大陸に到達したといい、各地で山火事を起こした。たまたま季節が冬だったため、雪が類焼を食い止め、大規模な森林火災には至っていない。
「こんにゃく+爆弾」というあまりに奇抜な発想から、日本人自身が恥ずかしがっているきらいもあるが、このつかみどころもない巨大な「ふ」号兵器の来襲を受けた米国側の評価は、日本とは正反対。ふ号作戦の全容解明に努めたW・H・ウィルバー代将の手記「日本の風船爆弾」によると、「これは戦争技術における目ざましい発展を画したものであった。世界で初めて、飛び道具が人間に導かれないで海を渡ったのである」と、口を極めて絶賛している。
ふ号が世界で初めて人間に導かれず海を渡れたのは、巧妙に作られた高度保持装置というテクノロジーと、高気密性を持ったこんにゃくという天然素材のお陰である。
ふ号計画は、昭和17(1942)年4月の米軍による東京発空襲に対する報復手段だった。秘密兵器の開発は、第9陸軍技術研究所(通称:陸軍登戸研究所)が進め、球皮の材料としてゴム引き布、合成樹脂、各種油脂、糊剤なども一緒に気密性測定を行ったが、最も優れた結果を出したのがこんにゃく糊。
後に、ふ号の球皮を米軍が調査した結果、その水素漏洩量は1平方メートル当たり1日に0.98リットルで、当時の米軍が使用していたゴム引き気球の10分の1だったという。抜群の気密性に加えて、和紙とこんにゃくを用いた球皮には、軽量とコスト安という大きな特色があった。気密性および量産化の点において、和紙とこんにゃくの取り合わせほど、風船爆弾の材料にふさわしいものはなかったのだ。
参考文献:武内孝夫『こんにゃくの中の日本史』(講談社現代新書)
昭和19(1944)年11月から翌20(1945)年4月にかけて、福島県勿来、茨城県大津、千葉県一宮海岸の3か所から合計9,300発が打ち上げられている。水素を詰めた気球に15キログラム爆弾と焼夷弾をいくつかぶら下げた物を太平洋上空の偏西風に乗せて、米国本土攻撃を行うという気宇壮大な作戦だった。
ユーモラスな児戯にも似た兵器のようだが、9,300発のうち、推定1,000発が米大陸に到達したといい、各地で山火事を起こした。たまたま季節が冬だったため、雪が類焼を食い止め、大規模な森林火災には至っていない。
「こんにゃく+爆弾」というあまりに奇抜な発想から、日本人自身が恥ずかしがっているきらいもあるが、このつかみどころもない巨大な「ふ」号兵器の来襲を受けた米国側の評価は、日本とは正反対。ふ号作戦の全容解明に努めたW・H・ウィルバー代将の手記「日本の風船爆弾」によると、「これは戦争技術における目ざましい発展を画したものであった。世界で初めて、飛び道具が人間に導かれないで海を渡ったのである」と、口を極めて絶賛している。
ふ号が世界で初めて人間に導かれず海を渡れたのは、巧妙に作られた高度保持装置というテクノロジーと、高気密性を持ったこんにゃくという天然素材のお陰である。
ふ号計画は、昭和17(1942)年4月の米軍による東京発空襲に対する報復手段だった。秘密兵器の開発は、第9陸軍技術研究所(通称:陸軍登戸研究所)が進め、球皮の材料としてゴム引き布、合成樹脂、各種油脂、糊剤なども一緒に気密性測定を行ったが、最も優れた結果を出したのがこんにゃく糊。
後に、ふ号の球皮を米軍が調査した結果、その水素漏洩量は1平方メートル当たり1日に0.98リットルで、当時の米軍が使用していたゴム引き気球の10分の1だったという。抜群の気密性に加えて、和紙とこんにゃくを用いた球皮には、軽量とコスト安という大きな特色があった。気密性および量産化の点において、和紙とこんにゃくの取り合わせほど、風船爆弾の材料にふさわしいものはなかったのだ。
参考文献:武内孝夫『こんにゃくの中の日本史』(講談社現代新書)
なんぞ、なんぞ
日本とコメとの緊密な結び付きは、江戸時代の石高制をみても明らかである。コメは経済の基礎であり、武士の収入や資産、村の規模を示す単位としても用いられていた。古代、「塩」が貨幣の役割を果たした文明があったように、近世日本ではコメが同じような価値を有していた。天領から上がってくる年貢米や諸藩から送られてくる藩米など、100万石のコメが江戸の町には集まってきた。豊作か凶作かで、コメの値段に影響はあるとはいえ、宵越しの金さえあれば、江戸っ子はコメをふんだんに食べられる環境にあったのである。
大抵が日銭で暮らす身分だった江戸庶民は、「百相場」といって100文で買えるだけのコメを毎日調達するのが一般的だったらしい。白いご飯が何よりのごちそうとされ、白米に執着した分、おかずは質素になる。ピカピカの銀シャリのお供に、江戸っ子は何を食べていたか?
台所の設備や一日の収入などを考え合わせると、基本は一汁一菜。朝食ならば、ご飯にみそ汁、漬物。体が資本の職人ともなれば、これに納豆を付けたりする。「納豆とシジミに朝寝おこされる」「納豆を帯ひろどけの人が叫び」といった川柳からも分かるように、てんびん棒を担いだ早朝の振り売りは江戸の風物詩だった。糸引き納豆ばかりでなく、江戸後期になると、細かく叩いた納豆に豆腐や野菜、薬味を加えた「たたき納豆」がよく売れたという。みそ汁の具にして食したとか。
江戸勤番、和歌山藩士の記した『江戸自慢』には「からすの鳴かぬ日はあれど、納豆売りの来ぬ日はなし。土地の人の好物なる故と思わる」とまで書かれている。この当時、納豆を最も多く食べていたのは江戸以北の人たちで、江戸時代初期に水戸光圀が、そば、梅干しとともに納豆の製造を奨励したり、水戸藩の食膳に上せたりしたことがあずかっているようだ。
その水戸藩のわらべ唄の一節に「〜なんぞ、なんぞ、なんぞ、なんぞ、なんぞの先に糸つけて〜……」とあり、なぞなぞにもなっている。最後まで歌うと、わらべ唄の中に「な」の字が全部で10文字出てくる。答えは「な」が10文字で「納豆」。大人から子供まで、水戸藩の納豆人気の高さがうかがえるエピソードである。
参考文献:大久保洋子『江戸っ子は何を食べていたか』(青春出版社)
、グルメ文庫編集部編『日本の伝統食』(角川春樹事務所)
大抵が日銭で暮らす身分だった江戸庶民は、「百相場」といって100文で買えるだけのコメを毎日調達するのが一般的だったらしい。白いご飯が何よりのごちそうとされ、白米に執着した分、おかずは質素になる。ピカピカの銀シャリのお供に、江戸っ子は何を食べていたか?
台所の設備や一日の収入などを考え合わせると、基本は一汁一菜。朝食ならば、ご飯にみそ汁、漬物。体が資本の職人ともなれば、これに納豆を付けたりする。「納豆とシジミに朝寝おこされる」「納豆を帯ひろどけの人が叫び」といった川柳からも分かるように、てんびん棒を担いだ早朝の振り売りは江戸の風物詩だった。糸引き納豆ばかりでなく、江戸後期になると、細かく叩いた納豆に豆腐や野菜、薬味を加えた「たたき納豆」がよく売れたという。みそ汁の具にして食したとか。
江戸勤番、和歌山藩士の記した『江戸自慢』には「からすの鳴かぬ日はあれど、納豆売りの来ぬ日はなし。土地の人の好物なる故と思わる」とまで書かれている。この当時、納豆を最も多く食べていたのは江戸以北の人たちで、江戸時代初期に水戸光圀が、そば、梅干しとともに納豆の製造を奨励したり、水戸藩の食膳に上せたりしたことがあずかっているようだ。
その水戸藩のわらべ唄の一節に「〜なんぞ、なんぞ、なんぞ、なんぞ、なんぞの先に糸つけて〜……」とあり、なぞなぞにもなっている。最後まで歌うと、わらべ唄の中に「な」の字が全部で10文字出てくる。答えは「な」が10文字で「納豆」。大人から子供まで、水戸藩の納豆人気の高さがうかがえるエピソードである。
参考文献:大久保洋子『江戸っ子は何を食べていたか』(青春出版社)