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納豆売りの発祥は京都か?

幕末の紀州・田辺藩、安藤家の御典医の原田某がしたためた随筆『江戸自慢』に、「烏の鳴かぬ日はあれど、納豆売りの来ぬ日はなし。土地人の好物なる故と思はる」との記述がある。江戸に住んで驚いたのは、カラスが鳴かない日があっても、納豆売りは毎日必ずやって来ることだというのである。ちなみに、納豆売りがカラスの鳴き声と比較されているのは、納豆売りを含めて、当時の物売りが各自独特の口上や売り声を使って商売していたため。それぞれの売り声で何屋が何を売りに近くまでやって来たか、分かったわけである。

納豆にまつわる川柳(2006年8月「なんぞ、なんぞ」参照)などは他の文献にも多く見られる。これだけ納豆好きな江戸っ子がいるのだから、納豆売りの発祥の地も江戸なのだろうとつい憶測してしまうが、具体的な史料がなければ歴史を論じることはできない。納豆売りにまつわる最も古い文献に当たる限りでは、どうやら上方で先に納豆売りが始まっているようなのである。

元禄3年(1690)に京都で刊行された『人倫訓蒙図彙』は編者不明、挿画は蒔絵師源三郎が手掛けている。主に京都を中心として、多種多様な身分・職業の説明や所作、仕事道具などを図説したものだが、その中に、納豆(厳密には、叩き納豆)が取り上げられている。

(叩納豆)薄ひらたく四角にこしらへ、こまごまな菜、豆腐を添へる也。値安く、早業のもの。九月末より二月中売りに出る。富小路通四条上ル町

図説であるため、文章は大まかだが、要は「叩納豆」の説明である。これは納豆を包丁でたたいて刻んだものに野菜と豆腐が添えてあり、火にかけた鍋の中に入れて煮れば「納豆汁」になる、いわば「即席納豆汁」のようなもの。納豆そのものではなく、納豆の加工品を売っているところが興味深い。売られた時期は「九月末より二月中」とある。今でこそ、年中いつでもおいしく食べられる納豆だが、かつて納豆は冬が旬の食べ物であった。

参考文献:永山久夫『納豆万歳』(一二三書房)
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蒟蒻大黒天

群馬県下仁田町は「こんにゃくの町」として知られる。こんにゃく芋の主産地であり、さらにこんにゃく粉の生産量が全国のおよそ7割を占めるからである。この町にある諏訪神社には、日本で唯一ともいわれる「蒟蒻大黒天」が鎮座している。

諏訪神社は下仁田町の中心に位置し、地元の人たちに常日ごろから親しまれ、二年参りや初詣でなどでにぎわう。大国主命(おおくにぬしのみこと)、事代主命(ことくにぬしのみこと)、建御名方命(たけらなかたのみこと)などを祭っている。本殿と拝殿の彫刻は、飛騨の工匠の手によるものといわれており、町指定重要文化財になっている。また本殿のすぐ脇にある樹齢数百年の大欅(おおけやき)は、町指定天然記念物に指定されている。

古くは八幡神社だったが、戦国時代に甲斐の国の武田晴信(=信玄)がこの地を占拠した時、八幡神社を廃して諏訪神社にした方が良いとのアドバイスに従い、信州・諏訪の諏訪神社に勧請したと伝えられている。

蒟蒻大黒天は、本殿のすぐ左手の社に奉られている。大黒天はもともとヒンドゥー教のシヴァ神を本地とする憤怒神であったが、仏教に取り入れられて「七福神」の大黒天に姿を変えた。一般には米俵に乗り、福袋と打出の小槌を持った微笑の長者形で表される。しかし、下仁田町の蒟蒻大黒天が乗る俵はこんにゃく芋が詰め込まれたもので、お供え物も10キログラムのこんにゃく玉なのである。

昭和40年代、こんにゃく芋の価格低迷が続いた際に、当時の町長が相場の好転とこんにゃく業者の繁栄を祈願して、大黒天を彫ってもらった。昭和55(1980)年から毎年、原則として1月19日 に「蒟蒻大黒天祭」が開催されるようになり、こんにゃく芋の豊作と価格向上など、こんにゃく業界全体の繁栄が祈願されるようになった。当日はお札の販売やこんにゃくの無料サービスも行われる。

参考文献:塩田丸男『ニッポンの食遺産』(小学館)

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菌根菌との共生

マメ科植物は根に根粒を形成する。その中には根粒菌(バクテリア)がいて、宿主のマメ科植物から光合成産物を受け取る代わりに、窒素を還元してアンモニア態窒素に変換し、マメ科植物に供給する、いわゆる「共生的窒素固定」を行っている。

もちろん大豆も根粒(菌)を持っていることから、従来、大豆を栽培した跡地は窒素肥沃度が高まっていると考えられてきた。そのため、窒素という観点から見た場合の作付け体系は、大豆にとってよりも、大豆の後に栽培される作物にとって重要と考えられた。だが、大豆も他の作物同様に有機態の窒素などを吸収しているのであれば、大豆にとっても作付け体系は極めて重要となる。大豆のために、土壌に有機物や窒素を残してくれる作付け体系が望まれる。

ここで見逃せないのが、菌根菌(マイコライザ)との関係だ。菌根菌は植物の根に共生し、植物から栄養分をもらう代わりに、植物のリン酸や亜鉛、あるいはアンモニア吸収を助けるといわれる糸状菌で、根粒菌と並ぶ善玉菌である。

さて、なぜ作付体系が菌根菌の共生に重要なのかというと、菌根菌は植物の根でしか繁殖できない絶対寄生菌であるため、畑に菌根菌と共生しないソバ、アブラナ科類、テンサイなどや、共生程度の大きくないムギやジャガイモなどが栽培されると、その跡地では密度が低下するためである。密度が低下すると後作物との共生程度は低下してしまう。一方、菌根菌とよく共生する作物にはトウモロコシ、ヒマワリ、サツマイモなどがあり、その跡地では菌根菌密度は増加し、後作物との共生程度も高くなる。畑に作物がない場合にも、絶対寄生菌である菌の密度は低下する

米国で大豆がトウモロコシと輪作されるのは「トウモロコシの栽培跡地では大豆連作跡地よりも菌根菌との共生程度が高まって、リン酸吸収が増えるため」との報告がある。また、米国では大豆などに亜鉛欠乏が起こることが知られているが、菌根菌との共生が良くなれば、欠乏症状がなくなることも知られている。作付け体系における前作物は、菌根菌密度への影響を通じて、大豆の生育や収量に大きく影響するといえる。

参考文献:有原丈二『ダイズ 安定多収の革新技術』(農山漁村文化協会)

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土佐の豆腐は朝鮮由来

高知市周辺の豆腐は朝鮮の食文化の影響下にある」と鄭大聲(チョン・デ・ソン)氏は主張している。

鄭氏が冷や奴で食べた土佐の豆腐は「調理前の大きな豆腐1丁に、箸をぐさりと刺して持ち上げてもくずれない」ほど非常に堅く、「通常の絹ごしや木綿ごしの味わいとは異なり、ざらりとした感触で固いが、豆腐そのものが持つ特有の香りと味覚は同じ」で、この豆腐に鄭氏は「北朝鮮の平壤で食べた豆腐や、母が日本の豆腐を再加工して作った豆腐の感触が思い出されてしまうのだ」と印象批評を述べている。

この説に客観的、実証主義的な根拠を求めると、『皆山集』に行き当たる。以前、「大河ドラマ『功名が辻』県推進協議会」が、映像撮影のために高知県立図書館から借り出した原本の1冊を紛失させたことでニュースになった土佐の藩政史料だが、これは明治維新後、高知県に出仕して諸取調役を歴任した松野尾章行が、郷土史研究の一大集成として集録したもの。全10巻から成るこの書の第9巻に高知の豆腐のルーツが描かれている。

豆腐のことを或る書に伝えて云う。当国には古くは豆腐無く、文禄年中に長宗我部元親、朝鮮国虜人等をひきいてこれに帰りし時、某徒に朴好仁(パクホイン)有り、その子孫なお当国に住みて国守山内一豊公高知城を築きし時、即ち朴氏、今の唐人町に居りて使わる。土佐郡鏡川の北地、此に豆腐製りを始める。すなわち今の秋月某の祖なり

文禄元(1592)年から慶長3(1598)年、豊臣秀吉が李氏朝鮮に出兵した「文禄・慶長の役」において、土佐からは長宗我部元親が3,000の兵を率いて参戦した。1592年2月、長宗我部軍の攻撃を受けて投降した一軍の将が朴好仁。1597年3月、長宗我部軍は帰国、朴好仁を含む30人余りが捕虜として土佐に連れて来られた。

徳川の世に移ると、慶長6(1601)年、土佐藩主として山内一豊が赴任してくる。山内一豊は高知城を築くと同時に、武家屋敷や町民の生業別に居住地を定めたが、この時、朴好仁一族らの唐人屋敷が現在の唐人町に置かれた。「唐人」とは中国の唐に限らず、外国人の総称。豆腐という食品がなかった土佐地方に「豆腐座」を設け、渡来帰化した朴好仁の子孫に新しい食品産業を興させたのである。

参考文献:鄭大聲『食文化の中の日本と朝鮮』(講談社現代新書)

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