世帯主年齢別に見る豆腐の消費状況

少子高齢化が進むにつれ、高齢者の社会保障費の増大や労働人口の減少など様々な問題が生じ、社会的活力の衰退が深刻視されている。少子高齢化社会を迎えて、人口構造の変化は豆腐の家計支出にいかなる影響を及ぼすのだろうか。総務省統計局が公表している2007年の「家計調査」(対象は2人以上の世帯)において、世帯主の年齢階級別に見た詳細結果表から豆腐に関するデータを抽出した。

豆腐に対する家計支出金額の平均は1年間で6,492円、購入数量は75.06丁である。年齢階級別に見ると、29歳以下が3,516円で49.08丁、30〜39歳が4,359円で58.20丁、40〜49歳が5,703円で72.25丁、50〜59歳が7,151円で82.42丁、60〜69歳が7,563円で82.85丁、70歳以上が7,114円で75.95丁となっている。支出金額と購入数量のそれぞれ平均を100として、年齢階級別の指数を算出した。

豆腐200806

支出金額、購入数量ともに世帯主の年齢が50歳以上は指数が100を上回っている。どちらも70歳以上になると60〜69歳より数値は下がるが、全体を見ると世帯主が50歳以上の世帯で豆腐の消費は多い。これを見る限り、高齢化によって豆腐の消費量が極端に減る事態はないだろう。しかし問題は少子化で、子どもが少なくなれば、いずれ豆腐を好んで食べる50歳以上の人口も減ることになる。

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坂本の大文字納豆所

比叡山延暦寺の門前町として栄えた滋賀・坂本では、16世紀ごろ「大文字納豆所」が設けられ、糸引き納豆を商業的に製造・販売していたといわれている。『石川家文書』(丹七氏)によると、「三百余年前(元亀の昔)、吾祖石川丹左衛門が、豊太閤秀吉公が浅井朝倉征伐の際、軍馬の養いに坂本の煮豆を貢ぐべし」「俵に詰めて納めて程なく粘りを生し、糸を引き、秀吉が食べてみるに美味であった」という。それをきっかけにして納豆を作ったところ、「糸を引き、風味もあり、店を開き大文字納豆と唱え繁盛した」とある。同書の中では、納豆汁と納豆御飯の調理法も記されている。

比叡山に天台宗を開いた最澄(伝教大師)は、中国から持ち帰った茶の栽培を広め、また坂本に移住した渡来人の子孫ともいわれている。比叡山一帯は総本山・延暦寺を中心にした修行僧の道場となり、そのふもとの門前町が坂本だった。修行僧の日常食は禁欲的な精進料理である。コメ・豆・野菜を主体として、主要な総菜は湯葉のつけ焼き、「定心房」(稲わらで漬けたたくあん)、なめみそになる。

比叡山麓の農家では下山した僧侶に納豆などを振る舞う習慣があり、また納豆は僧侶の冬季の保存食として欠かせない食品だった。天台宗の法要には、「定心房」と納豆汁が供される。納豆汁は、納豆とみそをすりつぶして作られる。その際に、坂本で古くから作られてきたわらづと納豆が用いられたのである。

ところで糸引き納豆の発祥の由来について、石川家の祖先が軍馬に積み運んでいた大豆が発酵したという説は、東北地方における源義家を始祖とするものと同工異曲である。さらに近江の古い伝説では、湖東の百済寺に詣でた聖徳太子が帰途、横溝(現・湖東町)の民家で休息を取り、そこで馬の糧食だった大豆のあまりをわらづとに入れ、木の枝に掛けておいた。それが納豆になり、「横溝納豆」として知られるようになったなど、馬とわらづと納豆の縁は総じて深い。同じく納豆発祥の地として名の挙がる京都・京北町も、近江からそう離れていない。個々の史実はともかくとしても、糸引き納豆の故郷を畿内に求める説は数多い。

参考文献:滋賀の食事文化研究会・編『芋と近江のくらし』(サンライズ出版)

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戦時下の生大豆粉

戦時下の家庭食品として、生大豆粉という経済と栄養と美味を兼ねた新食品が現れました。大豆が栄養に富んで居ることは誰方も御存じのことですが、この大豆粉はいろいろの料理に応用が出来、肉や玉子の代用として充分栄養が摂れる便利なもので、陸軍糧秣廠などでも非常に推奨しております」(白井鶴子『婦人倶楽部』昭和14年12月号)。この生大豆粉は、ほうろくで炒ってきな粉のようにして使うか、豆乳状にして使うのが一般的だったという。

斎藤美奈子著の『戦下のレシピ』では、当時の婦人雑誌に載った料理の作り方を通して戦争中の食生活史を探るという試みが為されている。コメをできるだけ節約する「節米料理」が流行し、コメの配給通帳制が始まったころでも、1941(昭和16)年までの婦人雑誌の料理ページにはそれほど大きな動揺や変化はなかった。しかし「十五年戦争」が1931(昭和6)年の柳条湖事件(満州事変)、1937(昭和12年)の盧溝橋事件を契機とした日中戦争を経て、1941(昭和16)年12月8日の真珠湾攻撃に始まる太平洋戦争の第3局面を迎えた時、婦人料理の料理記事も急速に緊張感を高めた。

コメだけでなく、食料品、衣料品、燃料など生活必需品のほとんどが配給制に移行し、料理ページにも配給制を前提とした記事が増えてくる。食生活で主食のコメと同じくらい重要なのはたんぱく質だが、肉や卵、魚などは十分な配給を期待できない状況だった。そこで魚介以外のたんぱく源として注目されていたのが大豆である。

しかし、豆腐や納豆といった伝統的な大豆加工食品はぜいたくな部類で、戦時レシピに頻出するのは「生大豆粉」「大豆粉」と記されたものや「卯の花(おから)」などである。「生大豆粉のままでは、非常に青臭くて食べられませんから、一旦火に通して用います」(『婦人倶楽部』昭和17年12月号)といった指導も見られるが、当時の代替肉として開発された植物たんぱく食品としての「生大豆粉」の正体は、「脱脂大豆(油を絞った後の大豆かす)を乾燥させた粉(大豆フラワーまたは大豆ミール)だったのではないか」と斎藤氏は推測している。

参考文献:斎藤美奈子『戦下のレシピ』(岩波アクティブ新書)

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こんにゃくでペニシリン開発

第二次世界大戦中、「風船爆弾」とも呼ばれた「ふ」号兵器(2006年8月「風船爆弾」参照)の開発に携わっていた東京高等女子師範学校(現・お茶の水女子大学)植物生物学科の大槻虎男博士は、こんにゃくの研究で学位を取得しており、「こんにゃく博士」とも呼ばれていた。

当時の大槻氏は、こんにゃくを用いた奇想天外な兵器「風船爆弾」の開発以外に、別の軍務にも携わっていた。昭和19年に陸軍が着手したペニシリンの開発がそれで、大槻氏は微生物学者として同年1月発足の陸軍医学校「ペニシリン委員会」のメンバーに名を連ねている。当時、肺炎にかかった英国首相チャーチルが新薬ペニシリンによって快癒したと報じた外電を受けて、陸軍が取り組んだプロジェクトだった。

ペニシリンは青カビが生成する物質なので、まず委員会の研究者たちはペニシリンを生成する有効な青カビを発見しなければならなかった。大槻氏は最初、牛乳に発生する青カビに目をつけた。しかしペニシリンの生産実験の結果、薬としての抗菌力が不足しており、薬剤化には程遠かった。カビの培養液を何倍まで薄めて有効かを示した場合、ペニシリン委員会は800倍希釈を目標としていたが、牛乳に発生した青カビは100倍希釈が限度だった。牛乳以外の他の養分を用いて青カビの培養を行ったが成功しなかった。

行き詰まったところで、大槻氏はこんにゃくを使ってみることを思いつき、実験してみると1,000倍以上の希釈有効の域に到達した。これによってペニシリンの工業生産のめどが立ち、東京女高師の大槻氏の研究室は、陸軍衛生材料本廠指定の工場と変わった。空襲を避けるため、大槻氏は教え子とともに長野・佐久に疎開したが、そこでペニシリン製造を続けるうちに終戦を迎えたという。

終戦後、進駐軍が大量のペニシリンを持ち込み、日本でもタンク培養で大量生産が可能になったが、こんにゃくを利用した大槻氏のペニシリンは既に実用レベルに達していた。大戦末期、陸軍と東大に臨床実験用として提供されたほか、大槻氏が個人的に分け与えたペニシリンは何人もの命を救ったのである。なぜこんにゃくが適していたのか。「悪いものがよいというのが結論であった。これは蒟蒻食が栄養が悪いから、健康によいというパラドックスと一致する」(原文ママ)と大槻氏は語っている。

参考文献:武内孝夫『こんにゃくの中の日本史』(講談社現代新書)

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通りすがりの夢想家。元(にして最後の)「トーヨー新報」編集人。現在は、一介の編集素浪人?



豆腐業界唯一の全国版専門紙
「トーヨー新報」は、昭和33年(1958)創刊。大豆加工品(豆腐・油揚げ、納豆、豆乳、湯葉、凍り豆腐、もやし等)、こんにゃく、総菜業界をメイン購読者層に、月3回の旬刊紙「トーヨー新報」や業界関連データブック『豆腐年鑑』を発行。平成25年(2013)12月21日号、第1851号をもって終刊に至る。

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