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こんにゃく芋に適した栽培環境

こんにゃく芋がよく育つ環境は以下の(1) 〜(4)の4条件を満たした場所だといわれている。

(1) 腐食質が豊富な土壌
腐食質が豊富な畑は保肥力が高く、肥持ちの良い耕土である。こんにゃく畑は窒素やリン酸、カリウムなどの肥料を入れることより、まず腐食質を高めることを優先するとよい。もみ殻燻炭、よく発酵させた落ち葉堆肥などを入れると、畑の炭素分が多くなり、こんにゃく芋が健全に育つ。
(2) 排水が良い
傾斜地などで排水が良好な場所なら問題はないが、排水が悪く多湿になりやすい平坦地の畑では病気が発生し、生育中に芋が腐れてしまうことがある。多湿になりやすい場所では高うねにして、排水性を良くする。
(3) 風通しが良く、かつ強風が当たらない
こんにゃく芋の地上の葉は傘状に開き、それを1本の茎が支える形になっているので、強い風には大変弱い。生育中に葉茎が倒れてしまうと、その時点で芋の肥大が止まってしまい、最悪の場合は芋が腐ることもある。防風対策としては、風上に防風林がある場所に植えること、防風ネットを張ることなどが挙げられる。
(4) 夏季の強い直射日光を避けることができる
東アジアのジャングルを自生地とするこんにゃく芋は、来歴から見ても長時間の強い太陽光線には弱い性質があり、夏季の強い太陽光線は葉焼けの原因となる。理想の栽培環境は日照時間がやや少なく、かつ西日を直接受けない場所だが、そうでない場合は、樹木の陰になる半陰地のような所を選ぶか、防風を兼ねた遮光ネットを張るなど、遮光の工夫をする。

参考文献:永田勝也『絶品手づくりこんにゃく』(農山漁村文化協会)
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『蒲団』の中の豆腐

小説家の田山花袋(1871〜1930年)は、尾崎紅葉(1867〜1903年)らが興した文学上の結社「硯友社」の門を叩くが、次第に自然主義に傾斜し、1907年に発表した『蒲団』で自然主義文学に一時代を画した。

同作は「事実を事実のまま自然に書く」ことを目指したもので、“私小説の原点”と呼ばれる。花袋の親友である小説家の国木田独歩(1871〜1908年)は同じ明治4年生まれで、まだ二人ともに文学者として駆け出しだった25歳のころ、日光へ合宿し、粗食の半僧生活を送った。食費はコメと酒のほかは豆腐ばかりで、生計メモには連日「とうふ、とうふ、とうふ」と記載があるという。

栃木県(現・群馬県)館林生まれの花袋は若い頃、胃が丈夫でなかったが、晩年は大食いだった。二男の田山瑞穂は「手のこんだものを母などがつくりますと却って、その味の混濁したものを好みませんで箸をつけずに不機嫌でした。そんな訳で豆腐の冷奴、古唐辛、饂飩、蕎麦、そう云った簡単なものが好きでして、そう云うものですと、二日でも三日でも続けて出しましても、それで父は満足して居りました」と語っている。

代表作『蒲団』が発表されたのは、花袋が36歳の時だった。同作では、花袋本人と目される中年作家の主人公・竹中時雄の家へ小説家志望の20歳の女弟子・横山芳子が住み込む。竹中は芳子に恋情を抱くが、芳子は恋人を作って家を出て行ってしまう。時雄は彼女の使用していた蒲団に顔を押し付けて匂いをかぐ、といった現実が暴露される。当時流行していた自然主義的な観点から、作家本人が自らの愛欲を赤裸々に告白したところが「新しい」と評価された。その一節に、時雄が芳子の恋人に嫉妬して自棄酒を飲む場面がある。

細君の心を尽した晩餐の膳には、鮪の新鮮な刺身に、青紫蘇の薬味を添えた冷豆腐、それを味う余裕もないが、一盃は一盃と盞を重ねた。

瑞穂の「ものの味と云うよりも香りの方に重きを置きました」との証言もある花袋の嗜好が、冷や奴に青紫蘇の薬味という組み合わせにも表れているようである。この匂いへの執着が女弟子の蒲団の匂いをかぐ小説の結末部をたぐり寄せる。

参考文献:嵐山光三郎『文人暴食』(新潮文庫)

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茨城県のそぼろ納豆

昔は納豆も手作りで、食べ方もその土地独特、風土の独自性が濃厚であった。まさに日本が世界に誇るべき「納豆文化」の成果と言ってよいだろう。現在でもその土地独自の加工法や食べ方が多く残っており、納豆がいかに日本人の食生活で重要な位置を占めていたかがよく分かる。

例えば、茨城県では「将門の干し納豆」「そぼろ納豆」「おかず納豆」「納豆汁」が今に伝えられている。その中でも、そぼろ納豆は「農山漁村の郷土料理百選」にも選ばれた逸品である。

農林水産省は全国各地に伝わる郷土料理のうち、農山漁村で脈々と受け継がれ、「食べてみたい!食べさせたい!ふるさとの味」として国民的に支持され得る料理を「農山漁村の郷土料理百選」に選定している。この郷土料理百選にまつわる歴史文化、レシピ、伝承活動なども併せて国民に向けて発信しつつ、食文化を通して地域振興を図ろうとする試みだが、この中で取り上げられたのが茨城県の“そぼろ納豆”。「おぼろ納豆」、「しょぼろ納豆」とも呼ばれる。

冷蔵(冷凍)技術がなかった時代、同県の納豆は厳冬期で10日程度、夏期には1日程度しか保存できなかったため、一度作った納豆は全部食べ切らないといけなかった。そこで余った納豆に塩や麹(こうじ)を加えて、日持ちのする保存食が考案された。そのひとつであるそぼろ納豆は水戸地方の農家で昔から作られており、現在も食べ伝えられている。塩漬けした切り干し大根を刻んで納豆に加え、しょう油などで味を調えて、より長く納豆を賞味できるようにしてある。1週間ほどで塩分がなじみ、大根も軟らかくなって、風味が出てくる。同名の商品も数社の納豆メーカーから販売されている。

ちなみに、他に名を挙げた「将門の干し納豆」は平将門が携帯兵糧として重視したと伝えられる干し納豆。「おかず納豆」は久慈地方の郷土食で、栃木県の「ひしお納豆」と同じ流れをくむ保存食であり、納豆に米麹と塩を混ぜて発酵させて作る。茨城県の「納豆汁」はネギとゴボウ、サトイモなどでみそ汁を作り、最後に納豆を加えるもの。

参考文献:永山久夫『納豆万歳』(一二三書房)

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大豆のある農村風景

小説家・ルポライターの井出孫六(1931年〜)は、長野県南佐久郡臼田町(現・佐久市)出身。彼の生まれ育った昭和初期の農村風景を「ツンと鼻をつく刺激臭」というエッセーで点描している。そこには自然な大豆の姿がある。

わたしの郷里では、春、田圃に水が張られると、お百姓さんはまるで壁屋も顔負けなほど念入りに、たっぷりと水をふくんだ泥土で畦を塗り固めていく。畦の上で乾かぬうちに、およそ三〇センチほどの間隔に鍬の柄で穴があけられていき、そこに大豆を二、三粒ずつ蒔いたあと、焼き籾殻を埋め込んでいく。田植えが終わったころ、畦には大豆が芽を出し、稲の生長を追いかけるように、葉を繁らせていく。畦に植えられた大豆は、川の堤の桜並木と同様、根を張って、梅雨時の長雨や二百十日のころの台風にそなえて田圃の決壊を防ぐのに役立っていることを知った。

大豆は別名「あぜ豆」とも呼ばれている。あまりにその印象が強かったためか、後の文章で井出は「大豆は畦でのみ作られる作物だと、わたしは信じてきたような気がする」と書くほどである。

稲刈りがすむと、畦には霜にうたれて葉を落とした大豆の列だけが残るが、それを引き抜くと、根にはビー玉ほどの粒子が数珠つなぎになって現れる。それは大豆の枝が空気中に浮遊する窒素を吸ってできた塊で、大豆は空気中の窒素を土に還す役割までになっていたのかと感嘆したものだった。脱穀された大豆は農家の庭先で秋の陽をあびて乾燥されるが、そこからはお婆さんの管理化におかれ、豆腐や納豆になったり、味噌、醤油に姿を変えていくことになる。

大豆の窒素固定を行う根粒が「ビー玉ほどの粒子が数珠つなぎになって」と生々しく描写されている。「豆類といえば家畜の飼料としか考えられない欧米とちがって、日本人の食生活に占める比重は高く、なかでも大豆は米麦につぐほど大切な穀物でありつづけてきた」事実が、井出の郷里・佐久の農村風景と密接に結び付いている。エッセーの表題にある“刺激臭”とは、井出が母の生家でかいだ自家製のみその匂いのことである。

参考文献:『あの日、あの味 〜「食の記憶」でたどる昭和史〜』(東海教育研究所)

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歌わない詩人、喰えない物書き。
たまに「考える人」、歴史探偵。
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