こんにゃくを売る子供
豆腐や納豆の棒手振(ぼてふり)はよく知られているが、かつてはこんにゃくも売り歩かれていたらしい。プロレタリア文学運動で活躍した熊本県出身の小説家、徳永直(1899〜1958年)が少年小説集『甚左どんの草とり』の中の一篇「こんにゃくを売る子供」で記している。徳永が子供時代に体験したことから、非常に面白い話、非常に大切な話と思われるものを大人になった現在、子供へ話すというスタイルを取る。
実家が貧しく、男の子としていちばん年長だった徳永は5年生ごろからこんにゃく売りを始めた。身体の前と後ろに25個ずつ、天秤棒を使って50個ばかりのこんにゃくを肩で担う。「こんにゃくはこんにゃく芋を擦りつぶして、一度煮てからいろいろな形に切り、それを水に一ト晩さらしといてあくをぬく」とあるから、立派な生ずりこんにゃくだったようだ。
「こんにゃァはァ、こんにゃはァ」と節を付け、往来の真ん中、逃げも隠れもできない衆目下、大声を張り上げられるようになるまで随分と苦労したと徳永は述懐する。特に気が弱かった分、その姿を同級生に見られることには、たまらなく恥ずかしさを覚えていた。
ある日、徳永少年はとある屋敷の番犬に驚くあまり、その家の主人が丹精込めて育てていたナスを踏みつぶしてしまう。主婦に責められている少年を庇って現れたのが、同じクラスの林茂だった。「小母さん、すみません」と徳永少年の代わりに謝って、温かい心持ちを示したのだ。林少年はハワイ生まれのハワイ育ち。口数は少ないが、いつもニコニコしている。学校でいちばん身体が大きく、いちばん勉強もできて、級長を務めていた。
こんにゃく桶を担いでいた徳永少年は、林茂に強く感謝する。その事件を契機として、つぶらな瞳、太い眉毛をした大柄な林と友達となり、親しく交わるようになった。林の父母がハワイへ移民し、日雇い労働者として苦労を重ねたこと、辛苦に耐え、商店を構えるまでに成功を収めたことなどを知らされ、林がこんにゃく売りであれ何であれ、いかなる職業にも偏見を持たず、尊敬の念を持つに至った育ちを垣間見るのだった。
林少年に感化されて、徳永少年も自分がこんにゃく売りとして働いていることを恥じることがないように成長し、往来で同級生に出くわしても平気で商売を続けられるようになったという。当時42歳の徳永が30年ほど昔を思い返しての懐旧談である。
参考文献:徳永直『甚左どんの草とり』(国華堂日童社)
実家が貧しく、男の子としていちばん年長だった徳永は5年生ごろからこんにゃく売りを始めた。身体の前と後ろに25個ずつ、天秤棒を使って50個ばかりのこんにゃくを肩で担う。「こんにゃくはこんにゃく芋を擦りつぶして、一度煮てからいろいろな形に切り、それを水に一ト晩さらしといてあくをぬく」とあるから、立派な生ずりこんにゃくだったようだ。
「こんにゃァはァ、こんにゃはァ」と節を付け、往来の真ん中、逃げも隠れもできない衆目下、大声を張り上げられるようになるまで随分と苦労したと徳永は述懐する。特に気が弱かった分、その姿を同級生に見られることには、たまらなく恥ずかしさを覚えていた。
ある日、徳永少年はとある屋敷の番犬に驚くあまり、その家の主人が丹精込めて育てていたナスを踏みつぶしてしまう。主婦に責められている少年を庇って現れたのが、同じクラスの林茂だった。「小母さん、すみません」と徳永少年の代わりに謝って、温かい心持ちを示したのだ。林少年はハワイ生まれのハワイ育ち。口数は少ないが、いつもニコニコしている。学校でいちばん身体が大きく、いちばん勉強もできて、級長を務めていた。
こんにゃく桶を担いでいた徳永少年は、林茂に強く感謝する。その事件を契機として、つぶらな瞳、太い眉毛をした大柄な林と友達となり、親しく交わるようになった。林の父母がハワイへ移民し、日雇い労働者として苦労を重ねたこと、辛苦に耐え、商店を構えるまでに成功を収めたことなどを知らされ、林がこんにゃく売りであれ何であれ、いかなる職業にも偏見を持たず、尊敬の念を持つに至った育ちを垣間見るのだった。
林少年に感化されて、徳永少年も自分がこんにゃく売りとして働いていることを恥じることがないように成長し、往来で同級生に出くわしても平気で商売を続けられるようになったという。当時42歳の徳永が30年ほど昔を思い返しての懐旧談である。
参考文献:徳永直『甚左どんの草とり』(国華堂日童社)
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菊池寛の納豆合戦
菊池寛(1888〜1948年)が児童向けに著した『三人兄弟』の中に、実体験に基づいたと思しき「納豆合戦」なる童話がある。菊池は冒頭、納豆売りの声について記す。朝の6〜7時頃から「なっと、なっとう」と哀れっぽい節を付けた女の納豆売りの声。その声に誘われて、小学校時代に老婆の納豆売りに仕掛けたいたずらを思い起こし、羞恥の念に駆られ、後悔するのだと告白する。
菊池はまだ11、12歳の頃で、近所の友達4、5人との通学時にいつも、納豆売りの盲目の老婆と遭遇していた。彼女は60歳を越し、冬もぼろぼろの袷を着て、足袋も履いてないような貧しげな姿。納豆のつとを20〜30個も抱え、杖を突きながら、毎朝「なっと、なっとう」と哀れな声を上げ、流し歩いている。
菊池の仲間の一人に豆腐屋の吉公という悪戯大将がいた。ある日、吉公は悪ふざけのターゲットに納豆売りの老婆を選んだ。吉公は盲目の納豆売りの前まで、つかつかと歩み寄り、「納豆をおくれ」と言う。老婆は口をもぐもぐさせながら、1銭のつと納豆か、2銭のつとかと尋ねる(してみれば、2種類のつと納豆を商っていた訳だが、これは分量の違いか……ならば、目が見えなくても勘付きそうなものだが、文中で1銭と2銭のつと納豆の差異は明らかにされていない)。吉公は1銭しか払わないのに、2銭の藁づとの方を巻き上げる。吉公は手に入れた納豆を食べるでもなく、学校に行くと、納豆を鉄砲玉にして(あるいは雪合戦の雪玉にして)、戦争ごっこを始める始末だ。大体、食物を粗末に扱うのも宜しくないが、納豆の粒をぶつけられた後の始末も気になるところ。
子供たちの老納豆売りへの悪戯は続く。吉公だけでなく、菊池(と思しき語り手)自身も老婆から1銭で2銭の藁づとをくすねる。が、悪事は露見する。連日売り上げの少ないことに不審を持って、老婆が巡査に相談したのだ。子供らは現場を押さえられる。1銭しか出してないのに2銭のつとを取ろうとした吉公の手を現行犯で、巡査がぐいっと握る。交番へ引っ張られそうになると、吉公が犯人は自分だけではないと白状。怖くなった子供たちは皆、一遍に泣き出してしまう。
すると何故かしら、老納豆売りが子供たちを擁護し、「堪忍してあげておくんなさい」と巡査に陳情するのだ。見えない目に涙をいっぱい湛えて。解放された菊池は「恩返し」のため、母親に頼み込んで、その老婆から納豆を買うようにした。
参考文献:菊地寛『三人兄弟』(赤い鳥社)
菊池はまだ11、12歳の頃で、近所の友達4、5人との通学時にいつも、納豆売りの盲目の老婆と遭遇していた。彼女は60歳を越し、冬もぼろぼろの袷を着て、足袋も履いてないような貧しげな姿。納豆のつとを20〜30個も抱え、杖を突きながら、毎朝「なっと、なっとう」と哀れな声を上げ、流し歩いている。
菊池の仲間の一人に豆腐屋の吉公という悪戯大将がいた。ある日、吉公は悪ふざけのターゲットに納豆売りの老婆を選んだ。吉公は盲目の納豆売りの前まで、つかつかと歩み寄り、「納豆をおくれ」と言う。老婆は口をもぐもぐさせながら、1銭のつと納豆か、2銭のつとかと尋ねる(してみれば、2種類のつと納豆を商っていた訳だが、これは分量の違いか……ならば、目が見えなくても勘付きそうなものだが、文中で1銭と2銭のつと納豆の差異は明らかにされていない)。吉公は1銭しか払わないのに、2銭の藁づとの方を巻き上げる。吉公は手に入れた納豆を食べるでもなく、学校に行くと、納豆を鉄砲玉にして(あるいは雪合戦の雪玉にして)、戦争ごっこを始める始末だ。大体、食物を粗末に扱うのも宜しくないが、納豆の粒をぶつけられた後の始末も気になるところ。
子供たちの老納豆売りへの悪戯は続く。吉公だけでなく、菊池(と思しき語り手)自身も老婆から1銭で2銭の藁づとをくすねる。が、悪事は露見する。連日売り上げの少ないことに不審を持って、老婆が巡査に相談したのだ。子供らは現場を押さえられる。1銭しか出してないのに2銭のつとを取ろうとした吉公の手を現行犯で、巡査がぐいっと握る。交番へ引っ張られそうになると、吉公が犯人は自分だけではないと白状。怖くなった子供たちは皆、一遍に泣き出してしまう。
すると何故かしら、老納豆売りが子供たちを擁護し、「堪忍してあげておくんなさい」と巡査に陳情するのだ。見えない目に涙をいっぱい湛えて。解放された菊池は「恩返し」のため、母親に頼み込んで、その老婆から納豆を買うようにした。
参考文献:菊地寛『三人兄弟』(赤い鳥社)
正直な豆腐屋、古川市兵衛
商売の心得で「三方よし」という言葉をよく聞く。買い手良し/世間良し/売り手良し――この三方が良いことが商売を長く続けていく秘訣だとか。シンプルに言えば、まず正直であることが求められているのではないか。
15大財閥のひとつ、古川財閥の創業者である古川市兵衛(1832〜1903年)は、幕末から明治の黎明期にかけてのサクセス・ストーリーを体現した立志伝中の人物として、様々な読み物に取り上げられた。明治・大正・昭和初期にかけて講釈師として人気を博した伊藤痴遊の『怪傑伝』では、「古川市兵衛の立志」なる一篇が含まれ、さらに篇中には「豆腐屋時代の正直」なる一章が設けられている。古川市兵衛は幼少の頃、棒手振(ぼてふり)として豆腐屋家業に携わっていたのである。
そもそも、市兵衛の生家の木村家は京都・岡崎の庄屋であったが、父の代には既に没落していた。市兵衛(=幼名・木村巳之助)は貧乏暮らし。ただ飯を食らっている訳にもいかず、豆腐を売って生計の資を得ることになる。ただの売り子では励みにもならないだろうし、100文につき4文の褒美を貰える約束だった。巳之助は連日、一生懸命に豆腐を売り歩いた。
ある日、白河村で駕籠かきと正面衝突し、豆腐箱が吹っ飛び、無論豆腐もめちゃめちゃ。駕籠かきに苦情を申し立てるが、逆に頭を小突かれ、駕籠に乗っていた武士もまともに取り合ってくれない。巳之助は自身が豆腐を売って得られる儲け、駕籠かきの日収なんぞを想像しているうちに、武士を羨ましく思う。そこへ品の良い大家の隠居らしき老人がやって来る。
望外にも、巳之助にいたく同情した隠居の口から、粉々に砕けて泥だらけになった豆腐の代金をすべて支払ってあげるとの申し出がなされた。対する巳之助は、その日の売り上げ目標は120文ばかりだけれど、「100文売ると私が4文ご褒美を貰うのですから、食べられない豆腐を買ってくださるなら、私の貰う4文を差し引いてお銭を下さいな」と正直な内訳を述べる。隠居は巳之助の実直さに感じ入り、「三つ子の魂百までと言うが、現在の心掛けを忘れちゃいけないよ」。ねぎらいの言葉とともに、4文の褒美を加えた代金を巳之助に手渡すのだった。
巳之助は、最前の高飛車な武士(の身分)にも羨望の念を抱いていたが、より一層、融通無碍な隠居の振る舞いに憧れる。この事件が巳之助を発奮させ、彼は父に請うて故郷の京都を離れると、盛岡の商人の下で修業に励むことになった。巳之助ではなく、古河市兵衛の物語がここから始まる。
参考文献:伊藤痴遊『快傑伝』(東亜堂書房)
15大財閥のひとつ、古川財閥の創業者である古川市兵衛(1832〜1903年)は、幕末から明治の黎明期にかけてのサクセス・ストーリーを体現した立志伝中の人物として、様々な読み物に取り上げられた。明治・大正・昭和初期にかけて講釈師として人気を博した伊藤痴遊の『怪傑伝』では、「古川市兵衛の立志」なる一篇が含まれ、さらに篇中には「豆腐屋時代の正直」なる一章が設けられている。古川市兵衛は幼少の頃、棒手振(ぼてふり)として豆腐屋家業に携わっていたのである。
そもそも、市兵衛の生家の木村家は京都・岡崎の庄屋であったが、父の代には既に没落していた。市兵衛(=幼名・木村巳之助)は貧乏暮らし。ただ飯を食らっている訳にもいかず、豆腐を売って生計の資を得ることになる。ただの売り子では励みにもならないだろうし、100文につき4文の褒美を貰える約束だった。巳之助は連日、一生懸命に豆腐を売り歩いた。
ある日、白河村で駕籠かきと正面衝突し、豆腐箱が吹っ飛び、無論豆腐もめちゃめちゃ。駕籠かきに苦情を申し立てるが、逆に頭を小突かれ、駕籠に乗っていた武士もまともに取り合ってくれない。巳之助は自身が豆腐を売って得られる儲け、駕籠かきの日収なんぞを想像しているうちに、武士を羨ましく思う。そこへ品の良い大家の隠居らしき老人がやって来る。
望外にも、巳之助にいたく同情した隠居の口から、粉々に砕けて泥だらけになった豆腐の代金をすべて支払ってあげるとの申し出がなされた。対する巳之助は、その日の売り上げ目標は120文ばかりだけれど、「100文売ると私が4文ご褒美を貰うのですから、食べられない豆腐を買ってくださるなら、私の貰う4文を差し引いてお銭を下さいな」と正直な内訳を述べる。隠居は巳之助の実直さに感じ入り、「三つ子の魂百までと言うが、現在の心掛けを忘れちゃいけないよ」。ねぎらいの言葉とともに、4文の褒美を加えた代金を巳之助に手渡すのだった。
巳之助は、最前の高飛車な武士(の身分)にも羨望の念を抱いていたが、より一層、融通無碍な隠居の振る舞いに憧れる。この事件が巳之助を発奮させ、彼は父に請うて故郷の京都を離れると、盛岡の商人の下で修業に励むことになった。巳之助ではなく、古河市兵衛の物語がここから始まる。
参考文献:伊藤痴遊『快傑伝』(東亜堂書房)
明治ビタミン戦争

乃木将軍の自刃は明治天皇の崩御を受けてのもの。表向きの理由は西南戦争(1877年)において連隊旗を奪われたことを償う旨とされるが、日露戦争(1904〜1905年)でも多くの兵(自身の長男・二男を含む)を失い、自責の念にさいなまれていた。確かに、乃木将軍率いる第3軍が旅順要塞攻略のために仕掛けた3回の総攻撃を通して、甚大な被害を被ったのは否定し得ない。加えて、司馬遼太郎の『殉死』や『坂の上の雲』により、乃木将軍「無能説」が大衆に根強く植え付けられることになる。
無能説の当否はともかく、様々な要因が複合・重層的に絡まり合って、戦争の勝敗は決する。例えば兵站。兵站といい、戦場といえども生活の場であるから、何より食料が問題だ。ところが往時の軍隊では、三食すべてに白米を充て、「江戸わずらい」「軍艦病」とも呼ばれた脚気が蔓延してしまう。
当時、脚気には栄養バランス説と細菌説があり、英国医学から学んだ海軍は白米食による栄養バランスの崩れではないかと忖度し、兵食改良に踏み切った。他方、ドイツ医学の強い影響下にあった陸軍軍医部は細菌説を採用(その急先鋒が森鴎外)。対症療法的な兵食改良論は「民間療法」と痛罵された。結果として日露戦争時の陸軍兵は戦死者6万人、傷病者38万人のうち2万1,400人が死亡、その大半が脚気患者だった。
鈴木梅太郎が明治43(1910)年にオリザニン、翌年にポーランド人学者・フンクがビタミン抽出に成功するのは、後の話だ。
対するロシア軍も悲惨だった。ロシア軍のステッセルが旅順開城した時、兵力3万6,000人、うち健康者は1万2,800人に過ぎない。要塞内に食料はまだ残されていたにもかかわらず、籠城中のロシア軍を苦しめたのは日本軍の砲弾以上に、ビタミン不足による壊血病だったという。
戦場となった中国東北部では元々大豆に親しみ、厳寒に襲われる冬季にもなれば、ビタミン補給源として大豆もやしを作ってきた。大豆種子内のでんぷんや脂肪、たんぱく質などは、発芽の際に加水分解されて、様々な栄養素に合成される。特にビタミンC、アスパラギン、アスパラギン酸、γ-アミノ酪酸(GABA)は一気に増加する。しかし大豆になじみのなかったロシア兵に、もやしの活用法まではわからない。ロシア軍が貯蔵されていた大豆からもやしを作ることを知っていたらば、ビタミンCを補給でき、その窮状はかなり改善されていただろうに。
明治の世の半年以上に及ぶ旅順要塞をめぐる攻防戦は、日露おのおの、脚気と壊血病を抱えてのハンデ戦でもあった。
参考文献:関川夏央『「坂の上の雲」と日本人』(文春文庫)