蒟蒻を画く芦雪
長沢芦雪(1754〜1799)は江戸時代の絵師。円山応挙(1733〜1795)の高弟といわれるが、応挙に負けず劣らぬ画才を誇り、同時代の曽我蕭白、伊藤若冲と並んで「奇想の絵師」の一人に挙げられる。大胆な構図で描かれ、現代の漫画・アニメのキャラクターにも通底するポップさが楽しい「虎図」(錦江山無量寺障壁画)などは誰しも見覚えがあるだろう。奇想の画家と呼ばれるだけあって、愉快なエピソードも枚挙にいとまがない。
木田寛栗の編んだ『画家逸事談』は表題どおり、古今の本朝絵師の逸事を取り上げた読み物なのだが、目次を眺めただけでも、芦雪の名が「長沢芦雪魚字の印を用ゆ」「長沢芦雪の豪遊」「長沢芦雪鯨を画く」「長沢芦雪蒟蒻を画く」と4篇に確認できる。ここで拾い読むのはもちろん、こんにゃくにまつわるエピソード。
長澤蘆雪播州高砂に遊びて連りに筆を揮へり、一人あり其宿を訪ひて、墨繪に蒟蒻を畫かんことを乞ふ、流石の蘆雪も大に困り、何枚となく之を畫きては近所の婦人小兒等に示し。誰れも蒟蒻の畫なりといふに及びて初めて之を先の依頼者に送りたるに、其人大に感賞して厚く酬をなしたりといふ。
播州・高砂で遊んでいた芦雪を数寄者が訪ねて、所望したのが蒟蒻図! それも墨絵でと注文されたものだから、困り果ててしまった芦雪。鯨を描いた時のように、大きな筆で紙面の大半を黒々と塗りつぶし、端っこに小さく4、5隻の漁船を点じる—といった技は使えない。どうするか? ただ愚直に写生するのである。ひたすらに何枚も何十枚も描いては捨て、描いては捨てつつ、女子供に意見を求めるのである。そうして誰が見ても「こんにゃくの絵」と認めた時に初めて、依頼主の下に画を送り届けた。豪放磊落な作風とはまた異なったニュアンスから、心の琴線に触れてくる話だ。
有名な「虎図」などは和歌山・串本町の無量寺などで鑑賞できるだろうが、蒟蒻図が現存しているかどうかは聞いたことがない。対価の報酬をたんまりと頂いたにせよ、芦雪のことだから、やはり豪遊して散財したに違いない。
参考文献:木田寛栗(無声居士)編『画家逸事談』(益世堂)
木田寛栗の編んだ『画家逸事談』は表題どおり、古今の本朝絵師の逸事を取り上げた読み物なのだが、目次を眺めただけでも、芦雪の名が「長沢芦雪魚字の印を用ゆ」「長沢芦雪の豪遊」「長沢芦雪鯨を画く」「長沢芦雪蒟蒻を画く」と4篇に確認できる。ここで拾い読むのはもちろん、こんにゃくにまつわるエピソード。
長澤蘆雪播州高砂に遊びて連りに筆を揮へり、一人あり其宿を訪ひて、墨繪に蒟蒻を畫かんことを乞ふ、流石の蘆雪も大に困り、何枚となく之を畫きては近所の婦人小兒等に示し。誰れも蒟蒻の畫なりといふに及びて初めて之を先の依頼者に送りたるに、其人大に感賞して厚く酬をなしたりといふ。

播州・高砂で遊んでいた芦雪を数寄者が訪ねて、所望したのが蒟蒻図! それも墨絵でと注文されたものだから、困り果ててしまった芦雪。鯨を描いた時のように、大きな筆で紙面の大半を黒々と塗りつぶし、端っこに小さく4、5隻の漁船を点じる—といった技は使えない。どうするか? ただ愚直に写生するのである。ひたすらに何枚も何十枚も描いては捨て、描いては捨てつつ、女子供に意見を求めるのである。そうして誰が見ても「こんにゃくの絵」と認めた時に初めて、依頼主の下に画を送り届けた。豪放磊落な作風とはまた異なったニュアンスから、心の琴線に触れてくる話だ。
有名な「虎図」などは和歌山・串本町の無量寺などで鑑賞できるだろうが、蒟蒻図が現存しているかどうかは聞いたことがない。対価の報酬をたんまりと頂いたにせよ、芦雪のことだから、やはり豪遊して散財したに違いない。
参考文献:木田寛栗(無声居士)編『画家逸事談』(益世堂)
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沢村真と納豆
納豆菌が所嫌わず生息している日本のような温帯モンスーン地帯では、蒸した大豆と(納豆菌が自然に付着している)稲わらさえあれば、それこそ自然発生的に納豆が現れる。近代以前のわが国では、コメの収穫を終えた冬の間の保存食として納豆を各農家が拵えていた訳で、誰が発明したという大仰な食品でもなく、いわゆる「手前味噌」のような形態で「手前納豆」のような物が地域に流通していたのだろうと思われる。だが食の近代化は、納豆という領域でも着実に進行した。
「近代化」および「近代」という問題は現在なお議論がかまびすしい。『広辞苑』を引いても「産業化・資本主義化・合理化・民主化など、捉える側面により多様な観点が存在する」と、はっきりしないが、本稿では産業化、すなわち「生活してゆくための仕事。なりわい。生業」と把握し、納豆の近代化とは「納豆を製造することのみによって生活が成り立つこと」と解する。納豆製造業が近代産業として成立するに当たって、いくつかのエポック・メイキングな出来事があるのだが、まず嚆矢として挙げるべきは、明治〜昭和時代前期の農芸化学者、沢村真(1865〜1931)の存在である。
沢村真は、栄養学、食品化学の研究で知られる東京帝大教授であり、後に文部省督学官も兼ねた。沢村は肥後(熊本県)出身……熊本といえば、東高西低の納豆消費量のトレンドにあって、九州で独り納豆人気の高い土地柄だったことが想起されるのだが。沢村の代表的な著書『営養学』の「豆類と雑穀」の章から、引用しよう。
絲引納豆を製するには、大豆を蒸し又は煮て、まだ熱い中に藁苞に入れ、之を室に入れて一夜暖めおけば翌朝は納豆となる。但し大豆の容量が多ければ、納豆となるに数日を要する。納豆は納豆菌(Bacillus natto, Sawamura)と云ふ細菌が、繁殖する為に出来るもので、納豆の衣は此細菌の塊と云ふてもよい。
「Bacillus」とは、細菌をその形状でいくつかに分類した際、棒状あるいは円筒状の桿菌を指す。着目すべきは学名に含まれた「Sawamura」。明治38年(1905)、納豆菌の純粋培養に成功したその人こそ、沢村真博士だったのである。
参考文献:沢村真『営養学』(成美堂書店)
「近代化」および「近代」という問題は現在なお議論がかまびすしい。『広辞苑』を引いても「産業化・資本主義化・合理化・民主化など、捉える側面により多様な観点が存在する」と、はっきりしないが、本稿では産業化、すなわち「生活してゆくための仕事。なりわい。生業」と把握し、納豆の近代化とは「納豆を製造することのみによって生活が成り立つこと」と解する。納豆製造業が近代産業として成立するに当たって、いくつかのエポック・メイキングな出来事があるのだが、まず嚆矢として挙げるべきは、明治〜昭和時代前期の農芸化学者、沢村真(1865〜1931)の存在である。
沢村真は、栄養学、食品化学の研究で知られる東京帝大教授であり、後に文部省督学官も兼ねた。沢村は肥後(熊本県)出身……熊本といえば、東高西低の納豆消費量のトレンドにあって、九州で独り納豆人気の高い土地柄だったことが想起されるのだが。沢村の代表的な著書『営養学』の「豆類と雑穀」の章から、引用しよう。
絲引納豆を製するには、大豆を蒸し又は煮て、まだ熱い中に藁苞に入れ、之を室に入れて一夜暖めおけば翌朝は納豆となる。但し大豆の容量が多ければ、納豆となるに数日を要する。納豆は納豆菌(Bacillus natto, Sawamura)と云ふ細菌が、繁殖する為に出来るもので、納豆の衣は此細菌の塊と云ふてもよい。
「Bacillus」とは、細菌をその形状でいくつかに分類した際、棒状あるいは円筒状の桿菌を指す。着目すべきは学名に含まれた「Sawamura」。明治38年(1905)、納豆菌の純粋培養に成功したその人こそ、沢村真博士だったのである。
参考文献:沢村真『営養学』(成美堂書店)
六条豆腐
山形県・西川町に岩根沢という集落がある。月山、羽黒山、湯殿山の出羽三山信仰の登拝口であり、現在、岩根沢三山神社である旧「日月寺」門前の宗教集落でもある。出羽三山は出羽三山神社の社伝によると、崇峻天皇の皇子、蜂子皇子(能除太子)が開山。父・崇峻天皇を蘇我氏に弑逆された蜂子皇子は出羽国に入った。片方の羽だけで8尺(2メートル40センチメートル)、3本足の八咫烏の導きを得て羽黒山に登ると、苦行の末、羽黒権現・月山権現・湯殿山権現の示現を拝し、祀って、開祖となった。さて、六浄豆腐を製造する「六浄本舗」も、やはり岩根沢に位置する。六条豆腐とは何か?
飴色というか、べっ甲色というか、半透明のすばらしく固い豆腐。はじめ塩を振って豆腐の水分を除き、次に日に干しあげて乾燥する、と伝えている。羽黒山伏が峯歩きの折の携行食の一つ。今、私たちは、カンナか小刀で薄くけずり、吸い物の具などに使うが、その昔、修験者たちは、薄くけずり、水にひたしでもして、峯歩きのおりの貴重な食糧としたのであろう。峯歩きのおりの食料は、修験者にとっては最高の口伝(口伝えの記録。文字には決して記さない。芭蕉も「総而(そうじて)此山中の微細、行者の法式として他言することを禁ず。よりて筆をとゞめて記さず」と『奥の細道』羽黒山の項に記す)。六条豆腐を修験者たちが、どう食べたものか、今では、その口伝も絶えた。
カンナで削らねばならないほど真剣に堅い六条豆腐—この世で最も硬い食品といえば、かつお節が思い当たる。削って吸い物や酢の物に入れるといった使用法もそっくりとはいえ、元は豆腐。大豆加工品だから、カツオのような生臭物ではない。製造過程で殺生を働いていないことから、六条豆腐は別名「精進節」とも呼ばれている。元々は京都・六条で製造されていたらしく、六条から出羽三山へ出向いた修験者がそれを伝えたそうだ。羽黒山の修験者が月山の農家の人に作り方を教えたという伝説もある。もっとも、「他言することを禁ず」なのだから、どこまで信頼できる情報かはわからない。
「六浄本舗」の方で、「六条」を「六浄」と商品名で改めたのは、修験者が登山の際に掛け声として「六根清浄」という語句を用いることから。俗に、「どっこいしょ」は「六根清浄」の音便の訛りだといわれている。
参考文献:近藤弘『日本うまいもの辞典』(東京堂出版)
飴色というか、べっ甲色というか、半透明のすばらしく固い豆腐。はじめ塩を振って豆腐の水分を除き、次に日に干しあげて乾燥する、と伝えている。羽黒山伏が峯歩きの折の携行食の一つ。今、私たちは、カンナか小刀で薄くけずり、吸い物の具などに使うが、その昔、修験者たちは、薄くけずり、水にひたしでもして、峯歩きのおりの貴重な食糧としたのであろう。峯歩きのおりの食料は、修験者にとっては最高の口伝(口伝えの記録。文字には決して記さない。芭蕉も「総而(そうじて)此山中の微細、行者の法式として他言することを禁ず。よりて筆をとゞめて記さず」と『奥の細道』羽黒山の項に記す)。六条豆腐を修験者たちが、どう食べたものか、今では、その口伝も絶えた。

「六浄本舗」の方で、「六条」を「六浄」と商品名で改めたのは、修験者が登山の際に掛け声として「六根清浄」という語句を用いることから。俗に、「どっこいしょ」は「六根清浄」の音便の訛りだといわれている。
参考文献:近藤弘『日本うまいもの辞典』(東京堂出版)
大豆飴
「だいずあめ」と読んではいけない。「大豆飴」は「まめあめ」と読むのである。れっきとした北陸、石川県七尾市の名物である。大豆飴の発祥には諸説あるようだが、最も古い説を採ると、鎌倉時代にまでさかのぼるらしい。
昭和3年(1928)に編まれた『石川県鹿島郡史』に「地頭に任命された長谷川信連が“能登の味”として源頼朝に献上した」との口伝が記されている。時代が下り、室町時代の頃の七尾市は能登畠山氏によって統治されていた。能登畠山氏といえば、畠山義統(3代)や義総(7代)が連歌集を編纂したように、都の文化を多く取り入れ、「小京都」と呼ばれる城下町を形成。華やかな商人文化や、石臼に代表される卓越した技術に裏打ちされて、高級菓子「大豆飴」が花開いた。
加賀藩主前田氏の祖、前田利家(1537〜1599)もまた太閤・豊臣秀吉に大豆飴を献上したという。さらに(現・七尾市の)府中町惣代肝煎が、加賀藩第2代藩主・前田利常(1594〜1658)へ献上した物のひとつとして「まめあめ」の文字が見られ、藩主献上品として伝えられてきた「大豆飴」の歴史が垣間見える。現代に伝えられる大豆飴の基本的な製法を見る限り、水飴と大豆の粉(きな粉)を練り合わせて作っている。形状は棒状や一口大サイズなど、製造所によって差異がある。きな粉や、振りかけて食べる抹茶粉などを作る際には、かつて石臼が活躍したのであろうと容易に想像できる。
余談になるが、昔日、京阪神の豆腐業へ流入してきたという北陸の人たちも、石臼文化圏に属していた影響の下にあって、豆腐作りという工程に親しみ易かったのではなかろうか。
ところで石川・七尾市は、安土・桃山時代から江戸時代初期にかけての絵師、長谷川等伯(1539〜1610)の生地でもある……活躍年代が、前田利家とほぼ被る。等伯は「小京都」と呼ばれ栄えた七尾で、その画才を開花させ、中央画壇でも高評価を受けるようになった訳だが、独特の風味と香ばしさで、茶会の席などに重宝された大豆飴の発展と軌を一にするようではないか。
七尾市では毎年、この時期(1月〜3月上旬)になると、「長谷川とうふ伯グルメ博覧会」が開催されている。「とうふ伯」は「等伯」の洒落だが、元々七尾市(含めて北陸)が豆腐と縁深くなければ、単なる語呂合わせに終わる。大豆〜豆腐とのつながりが濃い土地柄だったからこそのイベントなのだ。同博覧会では期間中、七尾市内の飲食店で、同市で作られた豆腐を元にした数々のメニューが提供される。
昭和3年(1928)に編まれた『石川県鹿島郡史』に「地頭に任命された長谷川信連が“能登の味”として源頼朝に献上した」との口伝が記されている。時代が下り、室町時代の頃の七尾市は能登畠山氏によって統治されていた。能登畠山氏といえば、畠山義統(3代)や義総(7代)が連歌集を編纂したように、都の文化を多く取り入れ、「小京都」と呼ばれる城下町を形成。華やかな商人文化や、石臼に代表される卓越した技術に裏打ちされて、高級菓子「大豆飴」が花開いた。
加賀藩主前田氏の祖、前田利家(1537〜1599)もまた太閤・豊臣秀吉に大豆飴を献上したという。さらに(現・七尾市の)府中町惣代肝煎が、加賀藩第2代藩主・前田利常(1594〜1658)へ献上した物のひとつとして「まめあめ」の文字が見られ、藩主献上品として伝えられてきた「大豆飴」の歴史が垣間見える。現代に伝えられる大豆飴の基本的な製法を見る限り、水飴と大豆の粉(きな粉)を練り合わせて作っている。形状は棒状や一口大サイズなど、製造所によって差異がある。きな粉や、振りかけて食べる抹茶粉などを作る際には、かつて石臼が活躍したのであろうと容易に想像できる。
余談になるが、昔日、京阪神の豆腐業へ流入してきたという北陸の人たちも、石臼文化圏に属していた影響の下にあって、豆腐作りという工程に親しみ易かったのではなかろうか。
ところで石川・七尾市は、安土・桃山時代から江戸時代初期にかけての絵師、長谷川等伯(1539〜1610)の生地でもある……活躍年代が、前田利家とほぼ被る。等伯は「小京都」と呼ばれ栄えた七尾で、その画才を開花させ、中央画壇でも高評価を受けるようになった訳だが、独特の風味と香ばしさで、茶会の席などに重宝された大豆飴の発展と軌を一にするようではないか。
七尾市では毎年、この時期(1月〜3月上旬)になると、「長谷川とうふ伯グルメ博覧会」が開催されている。「とうふ伯」は「等伯」の洒落だが、元々七尾市(含めて北陸)が豆腐と縁深くなければ、単なる語呂合わせに終わる。大豆〜豆腐とのつながりが濃い土地柄だったからこそのイベントなのだ。同博覧会では期間中、七尾市内の飲食店で、同市で作られた豆腐を元にした数々のメニューが提供される。