こんにゃく島の蒟蒻芸者
明和〜天文年間に流行した洒落本から当時の時代風俗を渉猟してまとめた山中共古『砂払』に、安永7年(1778)春刻の田水金魚撰『十八大通百手枕』が引かれている。その頃の通人があらゆる事象にわたって指南するといった体の書物だが、代表的な岡場所(=私娼地)と遊女をセットにして31か所並べ立てた一節に「こんにやくおりやうにつくだのおいま」という名が見える。後半は佃島の「おいま」。では、前半の遊女「おりょう」はどこの土地に居たのか? 文字どおり、こんにゃく(島)に居たのである。
実際、近世の遊里文学などをひもといていくと、「蒟蒻島」という地名に出くわし、「蒟蒻(島)芸者」を目にすることは珍しくない。例えば、酔多道士『東京妓情』(1886)では「冨島町に住む歌妓を称して蒟蒻島藝者と云ふ。蒟蒻島ハその俚諺なり」とストレートに記す。共古がまた別に引いた『寸南破良意』(安永4年)の序文でも、「近頃新ニ一場ノ埋地ヲ築、号テ蒟蒻島ト呼。然後ニ家軒並テ島守此所ニ集ル。茶店ヲ構エ美ナル給女数多抱置シ、諸客ニ茶ヲ点シテ饗応ス。故ニ此ノ遊楼日ニ増シ夜ニ盛ニシテ繁栄ス云々」とあって、蒟蒻島と蒟蒻芸者の存在が明記されている。
長くなるが、平凡社の『世界大百科事典』から、蒟蒻島の正式名である「霊岸島」の項目を適宜引用してみよう。
「東京都中央区東部、隅田川河口右岸にある町名。現在の霊岸島、越前堀、新川の各町にわたる霊岸島は江戸時代初期には北に隣る箱崎島とともに江戸中島とよばれていたが、のち新川によって箱崎島と分離。地名は1624年(寛永1)霊厳雄誉上人がこの地に霊岸寺を創建し埋立地をひろげたことに由来。霊岸寺(江戸六地蔵の一つ。境内に松平定信の墓がある)は1657年の明暦の大火後、深川白河町に移転。一ノ橋以北の埋立地は地盤が軟弱で、<こんにゃく島>とよばれた」
「蒟蒻島」はこんにゃく芋の産地だとかいった事柄と全く無関係であり、ただ地盤が軟弱な埋立地であったことから、霊岸島に付けられた別名であったようだ。蒟蒻芸者も遊女のタイプ云々と全くの無縁で、単に地名としての「蒟蒻島」で働いていたことから「蒟蒻(島)芸者」と呼ばれていた模様。何もがっかりすることはない。
参考文献:山中共古『砂払(上)』(岩波文庫)

実際、近世の遊里文学などをひもといていくと、「蒟蒻島」という地名に出くわし、「蒟蒻(島)芸者」を目にすることは珍しくない。例えば、酔多道士『東京妓情』(1886)では「冨島町に住む歌妓を称して蒟蒻島藝者と云ふ。蒟蒻島ハその俚諺なり」とストレートに記す。共古がまた別に引いた『寸南破良意』(安永4年)の序文でも、「近頃新ニ一場ノ埋地ヲ築、号テ蒟蒻島ト呼。然後ニ家軒並テ島守此所ニ集ル。茶店ヲ構エ美ナル給女数多抱置シ、諸客ニ茶ヲ点シテ饗応ス。故ニ此ノ遊楼日ニ増シ夜ニ盛ニシテ繁栄ス云々」とあって、蒟蒻島と蒟蒻芸者の存在が明記されている。
長くなるが、平凡社の『世界大百科事典』から、蒟蒻島の正式名である「霊岸島」の項目を適宜引用してみよう。
「東京都中央区東部、隅田川河口右岸にある町名。現在の霊岸島、越前堀、新川の各町にわたる霊岸島は江戸時代初期には北に隣る箱崎島とともに江戸中島とよばれていたが、のち新川によって箱崎島と分離。地名は1624年(寛永1)霊厳雄誉上人がこの地に霊岸寺を創建し埋立地をひろげたことに由来。霊岸寺(江戸六地蔵の一つ。境内に松平定信の墓がある)は1657年の明暦の大火後、深川白河町に移転。一ノ橋以北の埋立地は地盤が軟弱で、<こんにゃく島>とよばれた」
「蒟蒻島」はこんにゃく芋の産地だとかいった事柄と全く無関係であり、ただ地盤が軟弱な埋立地であったことから、霊岸島に付けられた別名であったようだ。蒟蒻芸者も遊女のタイプ云々と全くの無縁で、単に地名としての「蒟蒻島」で働いていたことから「蒟蒻(島)芸者」と呼ばれていた模様。何もがっかりすることはない。
参考文献:山中共古『砂払(上)』(岩波文庫)
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納豆売りのいる食卓
変わるものもあれば、変わらないものもある。至って当たり前のことだが、歴史に学ばなければ、昔も今も人々は相も変わらぬ生活を続けてきたかのように、ついつい錯誤してしまう。例えば、日本の伝統食品である豆腐。近世の村や町には豆腐屋が必ずあって……なんてことはない。「豆腐屋なんてありゃせん。豆腐屋ができたのは最近だと言ってもええくらいじゃ」とは、明治26年(1983)生まれの名古屋市近郊大森村に生まれた女性の証言。そんな時代・地域のリアルな食生活に迫る『おばあちゃんからの聞き書き 明治・大正・昭和の食卓』(グラフ社)から、納豆の登場する場面をピックアップ。
「その昔は、豆腐屋さんも天秤をかついでラッパで売りに来てました。トーフーって。両方の天秤に水入れてたんだから大変でしたよね。たまには納豆も、ナットナットナットーって売りに来てました。でも、納豆のほうはあまり買った記憶がないですよね」峰崎きん(取材時89歳)――明治41年(1908)、千葉県東葛飾郡行徳町(現 ・ 市川市)の、江戸時代から「浅子周慶」の号を継ぐ神輿屋の家に生まれる。3歳のとき父が亡くなったため、16歳の姉が婿をもらってあとを継ぎ、きんさんは東京・馬喰町の雑貨問屋に奉公に出たあと、製紙会社の技術者と結婚、その後もずっと行徳に在住。
「朝ご飯には納豆もよく食べました。毎朝、天秤をかついで『なっと〜にみそまめ〜』って言いながら売りに来るの。天秤の先に籠がぶら下がっていて、一つには納豆、もう一つには味噌豆が入っていました。納豆は一つずつ藁苞に入っているのを、こちらが出した器に箸で手際よく移してくれて、刻みねぎ、青海苔、辛子をのせてくれたものです」木下喜代(取材時84歳)――大正4年(1915)、東京浅草・千束の生まれ。浅草生まれの浅草育ちで、お祭りと芸事が大好きな江戸っ子。丸の内のOL生活を体験後、親の決めた縁談を断って同じ浅草育ちの夫と結婚、3男を育てながら地元で製靴業を営む。
戦前の東京・関東地方での納豆売りの姿が生き生きと浮かび上がる、興味深い証言である。現在では納豆の辛子やたれ、豆腐の水も商品本体と一緒にパックされていて当前のようだが、昔は個別に提供されていた訳。主婦がボウルなどを持って豆腐を買いに行くくらいならば想像もたやすいが、納豆ですら持参した器に移してもらっていた時代があったのだ。
参考文献:ハウス食品株式会社ヒーブ室『おばあちゃんからの聞き書き 明治・大正・昭和の食卓』(グラフ社)
「その昔は、豆腐屋さんも天秤をかついでラッパで売りに来てました。トーフーって。両方の天秤に水入れてたんだから大変でしたよね。たまには納豆も、ナットナットナットーって売りに来てました。でも、納豆のほうはあまり買った記憶がないですよね」峰崎きん(取材時89歳)――明治41年(1908)、千葉県東葛飾郡行徳町(現 ・ 市川市)の、江戸時代から「浅子周慶」の号を継ぐ神輿屋の家に生まれる。3歳のとき父が亡くなったため、16歳の姉が婿をもらってあとを継ぎ、きんさんは東京・馬喰町の雑貨問屋に奉公に出たあと、製紙会社の技術者と結婚、その後もずっと行徳に在住。
「朝ご飯には納豆もよく食べました。毎朝、天秤をかついで『なっと〜にみそまめ〜』って言いながら売りに来るの。天秤の先に籠がぶら下がっていて、一つには納豆、もう一つには味噌豆が入っていました。納豆は一つずつ藁苞に入っているのを、こちらが出した器に箸で手際よく移してくれて、刻みねぎ、青海苔、辛子をのせてくれたものです」木下喜代(取材時84歳)――大正4年(1915)、東京浅草・千束の生まれ。浅草生まれの浅草育ちで、お祭りと芸事が大好きな江戸っ子。丸の内のOL生活を体験後、親の決めた縁談を断って同じ浅草育ちの夫と結婚、3男を育てながら地元で製靴業を営む。
戦前の東京・関東地方での納豆売りの姿が生き生きと浮かび上がる、興味深い証言である。現在では納豆の辛子やたれ、豆腐の水も商品本体と一緒にパックされていて当前のようだが、昔は個別に提供されていた訳。主婦がボウルなどを持って豆腐を買いに行くくらいならば想像もたやすいが、納豆ですら持参した器に移してもらっていた時代があったのだ。
参考文献:ハウス食品株式会社ヒーブ室『おばあちゃんからの聞き書き 明治・大正・昭和の食卓』(グラフ社)
耳を売る
パンの“耳”という。いささか業界寄りの話に振らせてもらうと、油揚げの“耳”ともいう。いずれも食品の端っこを指し、見栄えのよろしくない部分のことである。一般的に売り物としては推奨されていないが、油揚げだけでなく、豆腐のくずや欠けらについても「耳」と呼ばれていたようだ。民俗学の先駆者ともいわれる山中共古(1850〜1928)の記した考証本『砂払』では、豆腐の耳を扱った話を拾うことができる。
『砂払』は、岩波文庫だと副題に「江戸小百科」と銘打たれているように、江戸の市井の風俗・文物を拾い集めるに好適な読み物。江戸時代最後の幕臣だった山中共古が明治の世にあって、200冊に上る洒落本を濫読。往時が偲ばれる一節を自由気ままに抜き書いては、注釈を入れたものである。今回取り上げる個所は、天明8年(1788)と序文にある深川珍話書、タイトルは『評判の俵』とあり、内容は共古曰く「落語の本」のようだ。共古が抜粋した以下の文はまさに落とし噺。
豆腐豆腐※1と呼ども聞附ず。下女腹を立て追かけ出ながら、此豆腐屋は耳がないかといへばとうふや「耳は跡の町で売た」

豆腐のぼてふりである。町内を流し歩く豆腐屋に下女が「豆腐、豆腐」と呼びかけても聞こうとしない。腹を立てて「耳がないのか」と罵れば、豆腐屋が「(豆腐の)耳はさっきの町で売ってきた」とうそぶく。「豆腐の耳」という表現が当たり前のように通用していたからこそ通じるジョークだろう。このネタはよっぽど流行っていたものか、ほとんど同じ話が、あの十返舎一九『東海道中膝栗毛』(1802〜1809)にも見える。
膝栗毛では、豆腐売りが携行する前後の飯台に豆腐を入れ、「豆腐、豆腐はいらんか」と声をかけながら、朝早くから行商に出る。一軒の家から下女が走り出てきて「豆腐屋さん」と声をかけるが、豆腐屋は気付かず行き過ぎてしまう。下女が「これ、豆腐屋さん、耳がないの」と問いかけるまでの流れは一緒。対する豆腐屋の受け答えが「耳はうちにござります」。形が悪くて売り物に適しない(豆腐の)耳は家に置いてきたといったところか。
※1:「豆腐豆腐」の2回目の豆腐は、ユニコード「U+3031」くの字点。〱
参考文献:山中共古『砂払(上)』(岩波文庫)
『砂払』は、岩波文庫だと副題に「江戸小百科」と銘打たれているように、江戸の市井の風俗・文物を拾い集めるに好適な読み物。江戸時代最後の幕臣だった山中共古が明治の世にあって、200冊に上る洒落本を濫読。往時が偲ばれる一節を自由気ままに抜き書いては、注釈を入れたものである。今回取り上げる個所は、天明8年(1788)と序文にある深川珍話書、タイトルは『評判の俵』とあり、内容は共古曰く「落語の本」のようだ。共古が抜粋した以下の文はまさに落とし噺。
豆腐豆腐※1と呼ども聞附ず。下女腹を立て追かけ出ながら、此豆腐屋は耳がないかといへばとうふや「耳は跡の町で売た」

豆腐のぼてふりである。町内を流し歩く豆腐屋に下女が「豆腐、豆腐」と呼びかけても聞こうとしない。腹を立てて「耳がないのか」と罵れば、豆腐屋が「(豆腐の)耳はさっきの町で売ってきた」とうそぶく。「豆腐の耳」という表現が当たり前のように通用していたからこそ通じるジョークだろう。このネタはよっぽど流行っていたものか、ほとんど同じ話が、あの十返舎一九『東海道中膝栗毛』(1802〜1809)にも見える。
膝栗毛では、豆腐売りが携行する前後の飯台に豆腐を入れ、「豆腐、豆腐はいらんか」と声をかけながら、朝早くから行商に出る。一軒の家から下女が走り出てきて「豆腐屋さん」と声をかけるが、豆腐屋は気付かず行き過ぎてしまう。下女が「これ、豆腐屋さん、耳がないの」と問いかけるまでの流れは一緒。対する豆腐屋の受け答えが「耳はうちにござります」。形が悪くて売り物に適しない(豆腐の)耳は家に置いてきたといったところか。
※1:「豆腐豆腐」の2回目の豆腐は、ユニコード「U+3031」くの字点。〱
参考文献:山中共古『砂払(上)』(岩波文庫)
色利、煎汁、いろり
「いろり」と言っても、「囲炉裏」のことではない(確かに、冬の季語ではあるけれど)。漢字で書くと「色利」または「煎汁」。『広辞苑』の語釈では、「かつおぶしまたは大豆を煎じた煮出し汁」となっている。
続いて、源順(911〜983)の編集した平安時代の漢和辞書『倭名類聚鈔』から用例を引くと、「堅魚煎汁、加豆乎以呂利」。「加豆乎」のど真ん中に「豆」(大豆)を見出し、どきりとするが、ここは「堅魚」同様「加豆乎」も「かつお」と読む。だが、そうなると「カツオいろり」とわざわざ断らねばならないだけ、「いろり」の種類があったのではないか。また「つ」という音に当てはめる漢字はいくつもあろうに「豆」の文字を選び出したのには、それ相応の理由があったのではないかと推測が働く。
農学研究者の吉田よし子氏が、いろりについて触れている。
「日本では平安時代からいろりというだし兼調味料が使われてきた。平安時代の九条兼実の日記には『四種器、酢、酒、塩、醤、あるいは醤をやめて色利を使う。色利とは大豆を煎たる汁なり、或は魚を煎たる汁なり』とあるように、日本ではダイズのゆで汁、それも多分ダイズを煮て味噌を仕込む時に残る、ダイズの煮汁を煮つめて塩を加え、だし兼調味料を作っていたと思われる。江戸時代にも豆いろりという言葉は出てくるが、残念ながら豆いろりの作り方については、まだ情報を手に入れられずにいる」
残念なことに大豆ではないが、豆の王国・インドやその周辺では、この豆いろりが現役。使用する豆の種類はホースグラム(Dolichos biflorus)、インドではクルチ、クリチ、ミャンマーではペピザと呼ぶ。原産地はアフリカ、インドは第2次原産地。
現在もミャンマーでは、ペピザの茹で汁で「ポンイェージー」という豆いろりを作っているそうだ。茹で汁を弱火でとろとろと煮つめ、特有のコクを出す。汁が煮つまると別の鍋の汁と一緒にし、塩を加えて煮続ける。最後は練り餡を作るような案配で、こねるようにして練り上げる。出来上がった豆いろり(ポンイェージー)は八丁味噌くらいの堅さ。さらに乾燥して粉末にした商品もあるという。工場などでは茹で汁を一旦乳酸発酵させるが、家庭ではそのまま煮つめる。
参考文献:吉田よし子『マメな豆の話』(平凡社新書)
続いて、源順(911〜983)の編集した平安時代の漢和辞書『倭名類聚鈔』から用例を引くと、「堅魚煎汁、加豆乎以呂利」。「加豆乎」のど真ん中に「豆」(大豆)を見出し、どきりとするが、ここは「堅魚」同様「加豆乎」も「かつお」と読む。だが、そうなると「カツオいろり」とわざわざ断らねばならないだけ、「いろり」の種類があったのではないか。また「つ」という音に当てはめる漢字はいくつもあろうに「豆」の文字を選び出したのには、それ相応の理由があったのではないかと推測が働く。
農学研究者の吉田よし子氏が、いろりについて触れている。
「日本では平安時代からいろりというだし兼調味料が使われてきた。平安時代の九条兼実の日記には『四種器、酢、酒、塩、醤、あるいは醤をやめて色利を使う。色利とは大豆を煎たる汁なり、或は魚を煎たる汁なり』とあるように、日本ではダイズのゆで汁、それも多分ダイズを煮て味噌を仕込む時に残る、ダイズの煮汁を煮つめて塩を加え、だし兼調味料を作っていたと思われる。江戸時代にも豆いろりという言葉は出てくるが、残念ながら豆いろりの作り方については、まだ情報を手に入れられずにいる」
残念なことに大豆ではないが、豆の王国・インドやその周辺では、この豆いろりが現役。使用する豆の種類はホースグラム(Dolichos biflorus)、インドではクルチ、クリチ、ミャンマーではペピザと呼ぶ。原産地はアフリカ、インドは第2次原産地。
現在もミャンマーでは、ペピザの茹で汁で「ポンイェージー」という豆いろりを作っているそうだ。茹で汁を弱火でとろとろと煮つめ、特有のコクを出す。汁が煮つまると別の鍋の汁と一緒にし、塩を加えて煮続ける。最後は練り餡を作るような案配で、こねるようにして練り上げる。出来上がった豆いろり(ポンイェージー)は八丁味噌くらいの堅さ。さらに乾燥して粉末にした商品もあるという。工場などでは茹で汁を一旦乳酸発酵させるが、家庭ではそのまま煮つめる。
参考文献:吉田よし子『マメな豆の話』(平凡社新書)