マネの印象
以前、ぼくの書いた文章について、
「ここには、好きになれそうな人物が一人として出てこない」
といった批判(非難?)を受けたことがあります。
そうなんだろうか? と、ぼくは冷ややかに頭の片隅で思いめぐらしていました。
率直な感想に感謝はしましたが、「貴方が好きになれないタイプ」というだけで、
ぼくは、好きとか嫌いとかではなく、無性に惹かれ、言葉に書き留めておきたい
という衝動を大切にした訳でありました。世俗的な価値観とは、全く、距離を置いて。
印象派のマネが生きていた時代、その非難者からと同じく擁護者からも
「対象に無関心な画家」と評されていたそうです。
家族を描くにしても、友人を描くにしても、血の通った人間の親密さが見えない、と。
マネの側に立っていたはずのゾラにしてから、「彼(=マネ)の描き方は、
アカデミーの画家たちが静物画に対する態度と同じようなものだ」と記します。
思うのですが、それらの批判は全く間違ってはいないのでしょう。
ただ、だからといって、非難されるべき筋合いも全く無いかと思われるのです。
近代の人間が、まるで“物”のように、非人間的にしか見えない(疎外されている?)
という自身の印象を、マネは馬鹿正直に描いただけのように考えられるのです。
「マネは抗議しようとしたことなど断じてない。彼は他の誰でもなく
自分自身であろうと努めたに過ぎない」とマネ自身が表明しているように、
彼の向き合った現実がそうであった、それをそのまま画布の上に表しただけでしょ。
参考文献:吉川節子『印象派の誕生』(中公新書)
「ここには、好きになれそうな人物が一人として出てこない」
といった批判(非難?)を受けたことがあります。
そうなんだろうか? と、ぼくは冷ややかに頭の片隅で思いめぐらしていました。
率直な感想に感謝はしましたが、「貴方が好きになれないタイプ」というだけで、
ぼくは、好きとか嫌いとかではなく、無性に惹かれ、言葉に書き留めておきたい
という衝動を大切にした訳でありました。世俗的な価値観とは、全く、距離を置いて。
印象派のマネが生きていた時代、その非難者からと同じく擁護者からも
「対象に無関心な画家」と評されていたそうです。
家族を描くにしても、友人を描くにしても、血の通った人間の親密さが見えない、と。
マネの側に立っていたはずのゾラにしてから、「彼(=マネ)の描き方は、
アカデミーの画家たちが静物画に対する態度と同じようなものだ」と記します。
思うのですが、それらの批判は全く間違ってはいないのでしょう。
ただ、だからといって、非難されるべき筋合いも全く無いかと思われるのです。
近代の人間が、まるで“物”のように、非人間的にしか見えない(疎外されている?)
という自身の印象を、マネは馬鹿正直に描いただけのように考えられるのです。
「マネは抗議しようとしたことなど断じてない。彼は他の誰でもなく
自分自身であろうと努めたに過ぎない」とマネ自身が表明しているように、
彼の向き合った現実がそうであった、それをそのまま画布の上に表しただけでしょ。
参考文献:吉川節子『印象派の誕生』(中公新書)
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