売茶翁
またぞろ、「萬福寺」のことを思い出しました。
北側の回廊を回って、祖師堂などを覗き込んでいた時、
相方が伊藤若冲(1716~1800)の画があると言うのです。
ぼくも眼鏡を掛けて確認してみたところ、
禅画は掛かっていましたが、若冲の筆ではないようです。
ただ、萬福寺は若冲と何かと縁はございまして、
彼と親交の深かった「一杯一銭」売茶翁(1675~1763)が
黄檗禅を学んだのも、萬福寺においてでありましたから、
ぼくの目の届かない所に掛かっていたものかしら?と。
若冲の「動植綵絵」に対して、「丹青活手妙通神」と
一行書の賛辞を送ったのが、売茶翁(ばいさおう)でもありましたね。
売茶翁の略歴は以下のとおり(高野澄「黄檗山萬福寺の歴史」より)。
☆
萬福寺の黄檗禅は肥前国(佐賀県)にひろがり、佐賀の蓮池に竜津寺(りゅうしんじ)を誕生させた。
鍋島氏の臣下の柴山常名の子の元昭が竜津寺の化霖道竜(けりんどうりゅう)の弟子になり、師とともに宇治の萬福寺でまなんだ。化霖は萬福寺四代の独湛性瑩(どくたんしょうえい)の弟子だといわれる(伴蒿蹊『近世畸人伝』)。
元昭は帰郷して竜津寺に在り、師を補佐していたが、師の没後には法弟に寺務をゆずって諸国を行脚修行し、ついに僧籍を捨て、その後の人生を茶道(煎茶)に専念してすごした。
かれの茶はひたすら俗を離れることを目指すものであった。京の道端に茶店をかまえ、「一杯一銭」を謡い文句にして茶を売ることで、脱俗の茶道に徹した。
京のひとは、その脱俗の姿勢を称賛して「売茶翁」の名を呈したのであった。
昭和三年(一九二八)、萬福寺の境内に売茶翁を祀る売茶堂がたてられた。
参考文献:『古寺巡礼 京都 19 萬福寺』(淡交社)
北側の回廊を回って、祖師堂などを覗き込んでいた時、
相方が伊藤若冲(1716~1800)の画があると言うのです。
ぼくも眼鏡を掛けて確認してみたところ、
禅画は掛かっていましたが、若冲の筆ではないようです。
ただ、萬福寺は若冲と何かと縁はございまして、
彼と親交の深かった「一杯一銭」売茶翁(1675~1763)が
黄檗禅を学んだのも、萬福寺においてでありましたから、
ぼくの目の届かない所に掛かっていたものかしら?と。
若冲の「動植綵絵」に対して、「丹青活手妙通神」と
一行書の賛辞を送ったのが、売茶翁(ばいさおう)でもありましたね。
売茶翁の略歴は以下のとおり(高野澄「黄檗山萬福寺の歴史」より)。
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萬福寺の黄檗禅は肥前国(佐賀県)にひろがり、佐賀の蓮池に竜津寺(りゅうしんじ)を誕生させた。
鍋島氏の臣下の柴山常名の子の元昭が竜津寺の化霖道竜(けりんどうりゅう)の弟子になり、師とともに宇治の萬福寺でまなんだ。化霖は萬福寺四代の独湛性瑩(どくたんしょうえい)の弟子だといわれる(伴蒿蹊『近世畸人伝』)。
元昭は帰郷して竜津寺に在り、師を補佐していたが、師の没後には法弟に寺務をゆずって諸国を行脚修行し、ついに僧籍を捨て、その後の人生を茶道(煎茶)に専念してすごした。
かれの茶はひたすら俗を離れることを目指すものであった。京の道端に茶店をかまえ、「一杯一銭」を謡い文句にして茶を売ることで、脱俗の茶道に徹した。
京のひとは、その脱俗の姿勢を称賛して「売茶翁」の名を呈したのであった。
昭和三年(一九二八)、萬福寺の境内に売茶翁を祀る売茶堂がたてられた。
参考文献:『古寺巡礼 京都 19 萬福寺』(淡交社)
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tag : 美術