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可視化する心たち

大阪アジアン映画祭」のインディ・フォーラム部門、2017_03_10_『可視化する心たち』
3作品目を鑑賞しました。いずれも、「第13回シネアスト
・オーガニゼーション
(=CO2)」の助成作品です。
『おっさんのケーフェイ』『蹄』は一般公募枠、
五十嵐皓子・監督『可視化する心たち』(2017)は
俳優特待生起用枠に当たります。全て76分の上映時間
とはいえ、3本連続で観続けると、さすがに疲れます。
そのせいか、編集はもう少し、ならなかったか?とも。
まず、“心”を可視化する機械というSFチックな設定に、
興趣をそそられたのですが、“心”もまた役者の身体
~演技に準拠するため、展開が今ひとつ納得できず。
「可視化された」と提供されるものが、役者のまた別の
身体表現でしかないため、“心”を可視化するどころか、
“心”からより一層遠ざかっていくように、当初は思われたのでした。
映画が主に視覚芸術であるため、“心”もまた視覚化せざるを得ず、
さらに製作費や技術的な問題点などから、“心”を役者に演じさせる
というのが、現実的な最適解であることは理解できるのですけれども。
俳優特待生だけあって、個々の役者の演技には力が籠もっていました。
対して全体に、心というものに対する掘り下げ方が決定的に不足しているようで、
結局は色恋沙汰、ぐだぐだの三角関係に収斂していく流れが残念過ぎるという。
現象学的に、身体感覚を離れた“心”そのものなんぞ、存在しないという卓見も
一つのエクスキューズでしょうが、ならば、誰の身体感覚に基づく“心”なのか? 
その辺りの突っ込み不足が、誰かの作り出した幻影が、誰か特定の一個人として
成立するのは何故か?というナイーヴな問いを有耶無耶にしているようで、もやもや
させられました。そこから、作品の根幹に在るのは、“心”を可視化する機械でなく、
ドッペルゲンガー製造機と考えれば、首肯せざるを得ないのではないでしょうか? 
特定の個人像、あくまで視覚的なイメージを増幅させるだけの仕掛けであって、
ひとまず、“心”とは無縁と考えれば? “心”を可視化するのでなく、心の容器
(正確には、機能の現実態)である身体の数が増えて見えるだけでしょ。
そう考えれば、問題は氷解しますが、人間の“心”という興味深い問題設定自体、
雲散霧消してしまい、物語を衝き動かしていた動機までも成立しなくなるのですねえ。
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テーマ : 邦画
ジャンル : 映画

tag : 映画

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歌わない詩人、喰えない物書き。
たまに「考える人」、歴史探偵。
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