山田正亮の絵画
同人のTさんから頂いていた招待券が1枚あり、
開催期間が4月9日(日)まででした。いけない、
終わってしまう!と慌てて出掛けた4月7日(金)。
「京都国立近代美術館」の4階、コレクション・
ギャラリーで、「山田正亮の絵画」を鑑賞。
同美術館は岡崎公園内に位置し、平安神宮
前ですから、当日、京都市営地下鉄・東西線の
東山駅を下りた時から、観光客で混雑気味で、
修学旅行生らしき団体も非常に目立ちました。
山田正亮(1929~2010)の没後6年、初の包括的な
回顧展となったようです。“包括的”と言うのには
意味があって、正亮(まさあき)の個々の作品を一つひとつ
取り上げて見ても、丁寧に制作されてはいるけれども
……と、取っ掛かりの無さに途方に暮れる人も
少なくないかと思われるのですね。特に後期の作品
ともなれば、インダストリアル・デザインすれすれの
匿名性、何かしらの工芸品に近い簡素さを示して
いるものですから。ミニマリズムの果てのように、
多彩色の水平ストライプを過ぎて、最後には単純な
色の面にまで行き着いてしまいますが、
セザンヌの影響大な初期の静物画の
そこかしこに見られた色調が、正亮の体臭のように、生きた証しのように
晩年の「Color」シリーズでも同じく確認できる時、不思議な感動を覚えるでしょう。
“描き続ける”ことが“生きる”ことであった正亮は、多くの制作ノートを残しており、
展示されていたページの一部からでも、研究・思索の跡が窺え、彼にとっては
“描く”ことも“考える”ことの一部であったのだなあ、と体感できます。
ぼくは、初期の静物画に頻繁に出てくる砂糖壺のフォルムを愛しますが。

開催期間が4月9日(日)まででした。いけない、
終わってしまう!と慌てて出掛けた4月7日(金)。
「京都国立近代美術館」の4階、コレクション・
ギャラリーで、「山田正亮の絵画」を鑑賞。
同美術館は岡崎公園内に位置し、平安神宮
前ですから、当日、京都市営地下鉄・東西線の
東山駅を下りた時から、観光客で混雑気味で、
修学旅行生らしき団体も非常に目立ちました。

回顧展となったようです。“包括的”と言うのには
意味があって、正亮(まさあき)の個々の作品を一つひとつ
取り上げて見ても、丁寧に制作されてはいるけれども
……と、取っ掛かりの無さに途方に暮れる人も
少なくないかと思われるのですね。特に後期の作品
ともなれば、インダストリアル・デザインすれすれの
匿名性、何かしらの工芸品に近い簡素さを示して
いるものですから。ミニマリズムの果てのように、
多彩色の水平ストライプを過ぎて、最後には単純な
色の面にまで行き着いてしまいますが、
セザンヌの影響大な初期の静物画の
そこかしこに見られた色調が、正亮の体臭のように、生きた証しのように
晩年の「Color」シリーズでも同じく確認できる時、不思議な感動を覚えるでしょう。
“描き続ける”ことが“生きる”ことであった正亮は、多くの制作ノートを残しており、
展示されていたページの一部からでも、研究・思索の跡が窺え、彼にとっては
“描く”ことも“考える”ことの一部であったのだなあ、と体感できます。
ぼくは、初期の静物画に頻繁に出てくる砂糖壺のフォルムを愛しますが。
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テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。
ジャンル : 学問・文化・芸術
tag : 美術