『泥の河』の舞台
4月の「二人の読書会」のテクストが、非常に
べたなことに、宮本輝の『青が散る』となり、
どうせなら、初期の“川三部作”も読み返して
しまえ!と、『泥の河』から再読し始めていた
訳なのです。昔、読んだ時には、大阪が舞台
という印象くらいで踏みとどまり、下手すれば
『道頓堀川』とごちゃ混ぜになりかねない勢い
だったのですが、要は、“物語”を追うことに
一所懸命なだけで、小説の中の風景、とりわけ
橋に対する軽視が原因だったかと猛反省。
近世は“浪華の八百八橋”と呼ばれていた
ように、大阪の風景描写の要諦は、橋にこそ
有り!なのですねえ。右上の画像は、船津橋
(手前)と端建蔵橋。上下の画像ともに2008年
6月14日に撮影。当時2日間かけて、中之島に
架かる橋を撮って回っていましたねえ。何がそう
させたのか? よくは思い出せないのですが、
今では立派な“橋”好きになってしまいました。
『泥の河』の初出は1977年、時代設定はさらに
昭和30年(1955)と作品内で明記されており、
現在の雰囲気とだいぶ変わっていることは当然にしましても、
年月とともに東へ広がっていく中之島の東端ほどではないかとも思われるのです。
☆
堂島川と土佐堀川がひとつになり、安治川(あじかわ)と名を変えて大阪湾の一角に注ぎ込んでいく。その川と川とがまじわる所に三つの橋が架かっていた。昭和橋と端建蔵橋(はたてくらばし)、それに舟津橋である。
藁や板きれや腐った果実を浮かべてゆるやかに流れるこの黄土色の川を見おろしながら、古びた市電がのろのろと渡っていった。
安治川と呼ばれていても、船舶会社や夥しい数の貨物船が両岸にひしめき合って、それはもう海の領域であった。だが反対側の堂島川や土佐堀川に目を移すと、小さな民家が軒を並べて、それがずっと川上の、淀屋橋や北浜といったビル街へと一直線に連なっていくさまが窺えた。
参考文献:宮本輝『川三部作 泥の河・螢川・道頓堀川』(ちくま文庫)
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べたなことに、宮本輝の『青が散る』となり、
どうせなら、初期の“川三部作”も読み返して
しまえ!と、『泥の河』から再読し始めていた
訳なのです。昔、読んだ時には、大阪が舞台
という印象くらいで踏みとどまり、下手すれば
『道頓堀川』とごちゃ混ぜになりかねない勢い
だったのですが、要は、“物語”を追うことに
一所懸命なだけで、小説の中の風景、とりわけ
橋に対する軽視が原因だったかと猛反省。
近世は“浪華の八百八橋”と呼ばれていた
ように、大阪の風景描写の要諦は、橋にこそ
有り!なのですねえ。右上の画像は、船津橋
(手前)と端建蔵橋。上下の画像ともに2008年
6月14日に撮影。当時2日間かけて、中之島に
架かる橋を撮って回っていましたねえ。何がそう
させたのか? よくは思い出せないのですが、
今では立派な“橋”好きになってしまいました。
『泥の河』の初出は1977年、時代設定はさらに
昭和30年(1955)と作品内で明記されており、
現在の雰囲気とだいぶ変わっていることは当然にしましても、
年月とともに東へ広がっていく中之島の東端ほどではないかとも思われるのです。
☆
堂島川と土佐堀川がひとつになり、安治川(あじかわ)と名を変えて大阪湾の一角に注ぎ込んでいく。その川と川とがまじわる所に三つの橋が架かっていた。昭和橋と端建蔵橋(はたてくらばし)、それに舟津橋である。
藁や板きれや腐った果実を浮かべてゆるやかに流れるこの黄土色の川を見おろしながら、古びた市電がのろのろと渡っていった。
安治川と呼ばれていても、船舶会社や夥しい数の貨物船が両岸にひしめき合って、それはもう海の領域であった。だが反対側の堂島川や土佐堀川に目を移すと、小さな民家が軒を並べて、それがずっと川上の、淀屋橋や北浜といったビル街へと一直線に連なっていくさまが窺えた。
参考文献:宮本輝『川三部作 泥の河・螢川・道頓堀川』(ちくま文庫)
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