名前を奪われた橋
中之島の橋の話を続けましょう。一体に“橋”は
(建築)物であると同時に、その場所の名をも
表します。そのために、橋が存在しなくとも
地名だけが残るという現象がしばしば見られ、
「八百八橋」と呼ばれた大阪では、その例が
著しく多いようで、心斎橋、四ツ橋、桜橋……
現在は架かっていない橋の名前が、ずらずらと
挙がってきます。それとは別に、橋自体は在る
のだけれど、名前が昔と異なる(昔の名前は
他の橋に奪われた)という事態も出現します。
通常は、物としての橋の名前と地名とが
セットになるはずが、同じ場所に架かっている
のに、名前を奪われるという状況ですね。
さて、堂島川に架かる「玉江橋」(画像上)は、
元禄期の堂島開発によって設けられましたが、
当初の名前は「堀江橋」。しかし、追って
元禄11年(1698)の堀江川の開削時、同名の
橋が堀江川に架けられたので、改名を余儀なく
されました。名前を譲られた堀江橋が既に無い
という歴史の皮肉を感じます。堀江橋から見て
四天王寺は南東に位置しているのですが、その昔は、
「玉江橋の南に天王寺さんの五重塔が見える」と
大坂の七不思議に数え上げられていた模様。
現在の橋(上流側)は昭和4年(1929)に完成した桁橋(ゲルバー桁)。
昭和44年(1969)に嵩上げと拡幅工事(下流側)が行われています。
玉江橋を南下して、土佐堀川に架かるのが「常安橋」(画像下)……ですが、
江戸時代前期までは「田辺屋橋」が先行していたようです。
「田辺三菱製薬」の源流、「田辺製薬」創業者である薬種商、田辺五兵衛が
橋を架けていた同地に、中之島開拓時、大坂屈指の豪商、淀屋常安が架橋。
常安橋も玉江橋と同じく、第一次都市計画事業によって
ゲルバー式の鋼桁となり(1929)、戦後は下流側にも拡幅(1969)されました。
いずれの橋も、水管橋(?)が走る上流側と下流側の橋の間に、下方の水面が映り、
2本の橋が近接して架かっているように見え、橋の数え方について悩ましくなります。
参考記事:大阪市 橋梁顕彰碑 玉江橋
大阪市 橋の紹介 常安橋
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(建築)物であると同時に、その場所の名をも
表します。そのために、橋が存在しなくとも
地名だけが残るという現象がしばしば見られ、
「八百八橋」と呼ばれた大阪では、その例が
著しく多いようで、心斎橋、四ツ橋、桜橋……
現在は架かっていない橋の名前が、ずらずらと
挙がってきます。それとは別に、橋自体は在る
のだけれど、名前が昔と異なる(昔の名前は
他の橋に奪われた)という事態も出現します。
通常は、物としての橋の名前と地名とが
セットになるはずが、同じ場所に架かっている
のに、名前を奪われるという状況ですね。
さて、堂島川に架かる「玉江橋」(画像上)は、
元禄期の堂島開発によって設けられましたが、
当初の名前は「堀江橋」。しかし、追って
元禄11年(1698)の堀江川の開削時、同名の
橋が堀江川に架けられたので、改名を余儀なく
されました。名前を譲られた堀江橋が既に無い
という歴史の皮肉を感じます。堀江橋から見て
四天王寺は南東に位置しているのですが、その昔は、
「玉江橋の南に天王寺さんの五重塔が見える」と
大坂の七不思議に数え上げられていた模様。
現在の橋(上流側)は昭和4年(1929)に完成した桁橋(ゲルバー桁)。
昭和44年(1969)に嵩上げと拡幅工事(下流側)が行われています。
玉江橋を南下して、土佐堀川に架かるのが「常安橋」(画像下)……ですが、
江戸時代前期までは「田辺屋橋」が先行していたようです。
「田辺三菱製薬」の源流、「田辺製薬」創業者である薬種商、田辺五兵衛が
橋を架けていた同地に、中之島開拓時、大坂屈指の豪商、淀屋常安が架橋。
常安橋も玉江橋と同じく、第一次都市計画事業によって
ゲルバー式の鋼桁となり(1929)、戦後は下流側にも拡幅(1969)されました。
いずれの橋も、水管橋(?)が走る上流側と下流側の橋の間に、下方の水面が映り、
2本の橋が近接して架かっているように見え、橋の数え方について悩ましくなります。
参考記事:大阪市 橋梁顕彰碑 玉江橋
大阪市 橋の紹介 常安橋
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