浄土寺での誤認
その昔から“トマソン”的なものが好物で、路上観察学会の
流れから、建築好きとなり、藤森照信さんの著書を読み漁って
いる訳なのですが――嗚呼、ぼくが文学テクストに対する
姿勢は、超芸術トマソンに対する態度と同じだったか、
作者を意図的に看過すること、読者の全的自由の妄信!と
再認識して、独りで可笑しくなってしまいました―― 近頃、
一読した『天下無双の建築学入門』において、筆を誤った
ような記述がございました。太陽の光が素直に上から建物に
入ってくるヨーロッパとの対比で、「一般に日本の寺は光の
演出をしない」と断った上で、2つの例外を挙げています。
そのうちの一つが、兵庫県小野市の「浄土寺」です。
☆
兵庫県の浄土寺浄土堂は、堂内の高天井まで届く大きな
阿弥陀仏の背後の壁をオープンにしてあって、池に反射
した光が背後から射し込む。
☆
う~む。“リアル阿弥陀来迎図”=浄土堂は、確かに 阿弥陀三尊像の背面となる
西面が蔀戸(しとみど)で、日没の陽光が射し込んできますし、床からの反射光も計算
されているかと思われます。浄土寺の西には重源の手になる浄土堂(=阿弥陀堂)、
東には本堂(=薬師堂)が建ち、その間、境内の中心に池が位置しますけれども、
当然、阿弥陀三尊の前方に当たります。往古は西の方角に溜め池群が在った模様
ですが、現在はその光景を望むべくもありません。例外のもう一方であるところの、
西本願寺の「飛雲閣」と併せて、いずれも池を背景に置いていると説明したかった
だけでしょうが、知らない人が読めば、今なお、浄土堂後方に池が残っているように
誤解を招くかもしれません。しかし、西方の池を失っても、浄土寺の阿弥陀三尊は
十分に荘厳で、煌びやか。藤森さんは、浄土寺に足を運ぶ暇が無かったのかな?
流れから、建築好きとなり、藤森照信さんの著書を読み漁って
いる訳なのですが――嗚呼、ぼくが文学テクストに対する
姿勢は、超芸術トマソンに対する態度と同じだったか、
作者を意図的に看過すること、読者の全的自由の妄信!と
再認識して、独りで可笑しくなってしまいました―― 近頃、
一読した『天下無双の建築学入門』において、筆を誤った
ような記述がございました。太陽の光が素直に上から建物に
入ってくるヨーロッパとの対比で、「一般に日本の寺は光の
演出をしない」と断った上で、2つの例外を挙げています。
そのうちの一つが、兵庫県小野市の「浄土寺」です。
☆
兵庫県の浄土寺浄土堂は、堂内の高天井まで届く大きな
阿弥陀仏の背後の壁をオープンにしてあって、池に反射
した光が背後から射し込む。
☆
う~む。“リアル阿弥陀来迎図”=浄土堂は、確かに 阿弥陀三尊像の背面となる
西面が蔀戸(しとみど)で、日没の陽光が射し込んできますし、床からの反射光も計算
されているかと思われます。浄土寺の西には重源の手になる浄土堂(=阿弥陀堂)、
東には本堂(=薬師堂)が建ち、その間、境内の中心に池が位置しますけれども、
当然、阿弥陀三尊の前方に当たります。往古は西の方角に溜め池群が在った模様
ですが、現在はその光景を望むべくもありません。例外のもう一方であるところの、
西本願寺の「飛雲閣」と併せて、いずれも池を背景に置いていると説明したかった
だけでしょうが、知らない人が読めば、今なお、浄土堂後方に池が残っているように
誤解を招くかもしれません。しかし、西方の池を失っても、浄土寺の阿弥陀三尊は
十分に荘厳で、煌びやか。藤森さんは、浄土寺に足を運ぶ暇が無かったのかな?
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