大黒橋

新戎橋と深里橋の間に位置するのが、
「大黒橋」です。アメリカ村も近く、一応、
繁華街の際に位置するのでしょうけれども、
ホテルも建ち並び、猥雑な空気が漂います。
平成25年(2013)まで行われていた道頓堀川
水辺整備事業、「とんぼりリバーウォーク」の
設置工事に合わせて、現在の鋼ポータル
ラーメン橋に架け替えられました(平成24年完成)。
妙にごてごてと飾り付けた観があるにせよ、遊歩道から見上げる分には、すっきり。
しかしながら、付け替え前の鉄筋コンクリート・アーチ橋(昭和5年架設)の方が、
無骨ではあれ、懐かしくなってしまいます。その昔、鶴橋で働いていた時代は、
昼休みに近鉄電車(or 地下鉄・千日前線)を利用して難波まで移動し、アメ村の
「TOWER RECORDS」で買い物してとんぼ帰り。西側の出口から地上に出ると、
アメ村への経路が意外と短く、その際、旧・大黒橋をよく目に留めていたものです。
tag : 橋
出世地蔵尊
大阪の道頓堀川に架かる「新戎橋」南詰に
「出世地蔵尊」が祀られています。繁華街
ミナミに在るので、もっと人気が出て良さげ
ですが、御堂筋を渡れば、法善寺横丁に
あの“水かけ不動さん”が立っていますもの。
北岸の宗右衛門町は現在も地名が残って
いますが、出世地蔵の建つ道頓堀2丁目は、
変更以前は「九郎右衛門町」でした。
元禄の頃には宗右衛門町と合わせて
“二大花街”として町人文化の核として栄え、
地蔵尊も多くの住人から厚く信仰されていたようですけれども、
昭和20年(1945)の大阪大空襲に遭って、行方不明……
戦後数年経って、土中から見つかり、現在地に祀られることに。
実は「出世地蔵尊」と名付けられたのも、その時です。
埋もれた場所から「上に昇る」という意味で、
出世・栄達にご利益があるといわれていますよ。
ぼくは“上”に興味は無く、ただ重力の束縛から離れたいところ。

「出世地蔵尊」が祀られています。繁華街
ミナミに在るので、もっと人気が出て良さげ
ですが、御堂筋を渡れば、法善寺横丁に
あの“水かけ不動さん”が立っていますもの。
北岸の宗右衛門町は現在も地名が残って
いますが、出世地蔵の建つ道頓堀2丁目は、
変更以前は「九郎右衛門町」でした。
元禄の頃には宗右衛門町と合わせて
“二大花街”として町人文化の核として栄え、
地蔵尊も多くの住人から厚く信仰されていたようですけれども、
昭和20年(1945)の大阪大空襲に遭って、行方不明……
戦後数年経って、土中から見つかり、現在地に祀られることに。
実は「出世地蔵尊」と名付けられたのも、その時です。
埋もれた場所から「上に昇る」という意味で、
出世・栄達にご利益があるといわれていますよ。
ぼくは“上”に興味は無く、ただ重力の束縛から離れたいところ。
「はぶる」考
青木正次の『雨月物語(上)全訳注』を読み直していて、はっとしました。
巻頭の「白峯」に表れ出た言葉です。シテが崇徳院、ワキが西行。
☆
「今、事を正して罪をとふ、ことわりなきにあらず。されどいかにせん。この島に謫(はぶら)れて、高遠(たかとを)が松山の家に困(くるし)められ、日に三たびの御膳(おもの)すゝむるよりは、まいりつかふる者もなし」
☆
「白川の宮を出(で)しより、如意が嶽(みね)の嶮(けは)しきに足を破られ、或は山賤(やまがつ)の椎柴をおほひて雨露を凌ぎ、終(つひ)に擒(とら)はれて此(の)嶋に謫(はぶら)れしまで、皆義朝(よしとも)が姦(かだま)しき計策(たばかり)に困(くるし)められしなり」
☆
いずれも、讃岐国(香川県)に配流された崇徳院の恨み言ではあります。
「崇徳院」は落語の演題でも有名ですが、平将門、菅原道真と並んで
“日本三大怨霊”の一人に挙げられるキャラクターであると思い出しましょう。
科白に出てくる「謫(はぶ)る」について、青木の現代語訳では、
「この島に流されて」、「この島に流刑に」遭ったなどとされていますが、
この意味が現代語(?)としての「はぶる」にぴたりと適合する気がしたのです。
☆
仲間はずれにするといった意味合いの俗語「はぶる」の語源は未詳でして、
よく「村八分にする」(の省略)や「省く」といった俗説も見かけますが、
村八分説はどうも、良く出来た後付け臭く感じてしまい、仕方ありません。
省略したというのであれば、先に「村八分にする」という言語表現が、
同様のシーンで多々使用されてきたという変遷が考えられるはず。
「あいつを村八分にしようぜ」よりも、原義はよくわからないままに口から
(古語の記憶で)「あいつをはぶろうぜ」が先に出てきて、意味を考えた時に
いろいろと付随させてしまい、混乱してしまったのではないかと思ったのです。
つまり、元々在った「はぶる」の音とニュアンスだけが生き延び、
その際に直截な物言いを避け、新たな色を付けて蘇ったのではないか?と。
☆
青木正次の全訳注は、小説というジャンルの心底に徹する偉業ではありますが、
オリジナルの上田秋成の言語表現における格闘ぶりも凄まじいものです。
よくぞ、【謫】という漢字に、「はぶる」という大和言葉を当ててきたなあ!と。
さらに秋成は大阪人ですから、現代大阪人もよく使う「放(ほ)る」=「捨てる」
と「葬る」の意味が、音として渾然一体となっていたのではないでしょうか?
「はぶる」=「葬る」+「放る」ならば、現代俗語の「はぶる」までもう一息。
☆
【謫】 ①せめる。とがめる。②つみする。罪をきせて罰する。③つみ。とが。④官位をさげて遠方へ流す。⑤怪しい雲気。
――『旺文社 漢和辞典』(1983年、重版)
【葬(はぶ)る】 ①死体を野山に捨てる。埋葬する。ほうむる。②火葬にする。
【放(はぶ)る】 捨てる。散らす。
――『旺文社 古語辞典』(1983年、重版)
参考文献:青木正次『新版 雨月物語 全訳注』(講談社学術文庫)
巻頭の「白峯」に表れ出た言葉です。シテが崇徳院、ワキが西行。
☆
「今、事を正して罪をとふ、ことわりなきにあらず。されどいかにせん。この島に謫(はぶら)れて、高遠(たかとを)が松山の家に困(くるし)められ、日に三たびの御膳(おもの)すゝむるよりは、まいりつかふる者もなし」
☆
「白川の宮を出(で)しより、如意が嶽(みね)の嶮(けは)しきに足を破られ、或は山賤(やまがつ)の椎柴をおほひて雨露を凌ぎ、終(つひ)に擒(とら)はれて此(の)嶋に謫(はぶら)れしまで、皆義朝(よしとも)が姦(かだま)しき計策(たばかり)に困(くるし)められしなり」
☆
いずれも、讃岐国(香川県)に配流された崇徳院の恨み言ではあります。
「崇徳院」は落語の演題でも有名ですが、平将門、菅原道真と並んで
“日本三大怨霊”の一人に挙げられるキャラクターであると思い出しましょう。
科白に出てくる「謫(はぶ)る」について、青木の現代語訳では、
「この島に流されて」、「この島に流刑に」遭ったなどとされていますが、
この意味が現代語(?)としての「はぶる」にぴたりと適合する気がしたのです。
☆
仲間はずれにするといった意味合いの俗語「はぶる」の語源は未詳でして、
よく「村八分にする」(の省略)や「省く」といった俗説も見かけますが、
村八分説はどうも、良く出来た後付け臭く感じてしまい、仕方ありません。
省略したというのであれば、先に「村八分にする」という言語表現が、
同様のシーンで多々使用されてきたという変遷が考えられるはず。
「あいつを村八分にしようぜ」よりも、原義はよくわからないままに口から
(古語の記憶で)「あいつをはぶろうぜ」が先に出てきて、意味を考えた時に
いろいろと付随させてしまい、混乱してしまったのではないかと思ったのです。
つまり、元々在った「はぶる」の音とニュアンスだけが生き延び、
その際に直截な物言いを避け、新たな色を付けて蘇ったのではないか?と。
☆
青木正次の全訳注は、小説というジャンルの心底に徹する偉業ではありますが、
オリジナルの上田秋成の言語表現における格闘ぶりも凄まじいものです。
よくぞ、【謫】という漢字に、「はぶる」という大和言葉を当ててきたなあ!と。
さらに秋成は大阪人ですから、現代大阪人もよく使う「放(ほ)る」=「捨てる」
と「葬る」の意味が、音として渾然一体となっていたのではないでしょうか?
「はぶる」=「葬る」+「放る」ならば、現代俗語の「はぶる」までもう一息。
☆
【謫】 ①せめる。とがめる。②つみする。罪をきせて罰する。③つみ。とが。④官位をさげて遠方へ流す。⑤怪しい雲気。
――『旺文社 漢和辞典』(1983年、重版)
【葬(はぶ)る】 ①死体を野山に捨てる。埋葬する。ほうむる。②火葬にする。
【放(はぶ)る】 捨てる。散らす。
――『旺文社 古語辞典』(1983年、重版)
参考文献:青木正次『新版 雨月物語 全訳注』(講談社学術文庫)
公演記録鑑賞会
大阪市の「国立文楽劇場」小ホールでは、毎月1回、
自主公演記録映像の上演を行っており、9月8日(金)、
その平成29年度上半期「公演記録鑑賞会」に
馳せ参じてきましたよ。第398回も14時に開演。
時折、チケット代が懐に厳しい本公演のことを思えば、
無料という料金設定はありがたいものです。ただ、
先着159名という定員の縛りもあり、当日もほぼ
満席状態となっていましたが。演目は文楽(歌舞伎や
大衆芸能の回だってあるのです)で、昭和63年11月の
記録から「ひらかな盛衰記」をフィルムで鑑賞。
四段目の辻法印の段、神崎揚屋の段、奥座敷の段
と、10分間の休憩を挟み、楽しませてもらいました。
(小ホールは文楽劇場3Fに在ります。画像は1Fのエレベーター付近に飾られている「くいだおれ人形」)
☆
夫となる梶原源太景季が、親の仇筋であることに引き裂かれる傾城・梅ヶ枝、
あるいは息子・源太と、夫(=景時)の敵の遺児の梅ヶ枝の双方を生かそうとして
人を射殺せない矢柄を敢えて放つ母・延寿らの苦衷、人間ドラマに
重きを置いているのでしょうが、いんちき占い師・辻法印がコミカルの挙措で
笑いを取る“チャリ場”が最高。文楽もライヴに限るのは当然ですけれども、
フィルムはフィルムで、人形に迫った映像をじっくりと堪能できるので、分析的に
観るには適していると思います。生の雰囲気を愉しむのとはまた別物ですねえ。

自主公演記録映像の上演を行っており、9月8日(金)、
その平成29年度上半期「公演記録鑑賞会」に
馳せ参じてきましたよ。第398回も14時に開演。
時折、チケット代が懐に厳しい本公演のことを思えば、
無料という料金設定はありがたいものです。ただ、
先着159名という定員の縛りもあり、当日もほぼ
満席状態となっていましたが。演目は文楽(歌舞伎や
大衆芸能の回だってあるのです)で、昭和63年11月の
記録から「ひらかな盛衰記」をフィルムで鑑賞。
四段目の辻法印の段、神崎揚屋の段、奥座敷の段
と、10分間の休憩を挟み、楽しませてもらいました。
(小ホールは文楽劇場3Fに在ります。画像は1Fのエレベーター付近に飾られている「くいだおれ人形」)
☆
夫となる梶原源太景季が、親の仇筋であることに引き裂かれる傾城・梅ヶ枝、
あるいは息子・源太と、夫(=景時)の敵の遺児の梅ヶ枝の双方を生かそうとして
人を射殺せない矢柄を敢えて放つ母・延寿らの苦衷、人間ドラマに
重きを置いているのでしょうが、いんちき占い師・辻法印がコミカルの挙措で
笑いを取る“チャリ場”が最高。文楽もライヴに限るのは当然ですけれども、
フィルムはフィルムで、人形に迫った映像をじっくりと堪能できるので、分析的に
観るには適していると思います。生の雰囲気を愉しむのとはまた別物ですねえ。
tag : 文楽
「建築」事始め
『角川 短歌 8月号 2017』の特集は佐藤佐太郎没後30年。
座談会における秋葉四郎の発言で、近代建築好きには、
にやりとさせられる指摘が見受けられました。
☆
この歌で「建築」という語が出てくるでしょ。この『歩道』の時代、昭和15年(1940)くらいまでの戦前には「ビルディング」という言葉がないんです。だから「建築」という言葉あるいは建物になっている。戦後になってビルディングが入ってきて、ビルという言葉でいまは歌を作っているけど、佐太郎は最初は、ビルディングをビルと使うのを嫌がっていたんだけど。
☆
ここで俎上に載っているのは「ビルディング」という語なのですが、
残念なことに、秋葉は「建築」という語自体も歴史が浅いのではないか、
新しめの言葉であるやもしれぬことについて無頓着な気がしました。
(さらに、「建築」と「建物」とではニュアンスもだいぶ異なります)
例えば、ジョサイア・コンドルが工部大学校(東京大学工学部の前身)で
着任したのは“造家学科”でした。その造家学科から巣立っていったのが
辰野金吾や片山東熊らとなります。「建築」ではなく、「造家」だった訳です。
「造家」という語を「建築」に改めたのが、あの伊東忠太。
☆
[古代ギリシャの]市民たちは、芸術を好み、とりわけ彫刻と演劇にすぐれ、またものの本質を考える哲学をよくし、哲学の一つとして数学や科学に大きな成果をあげた。
芸術の本質についても深く考え、彫刻、絵画、建築そして若い女性の裸にも同じ質が潜むとし、“美”という抽象的概念を生み出している。またふつうの住宅と、人々の心をつかむため美しさを求められる神殿などの記念碑的建築を分け、後者にアーキテクチャー(architecture)の名を与えた。アーキ(古代ギリシャ語アルケー)は原理、テクチャー(古代ギリシャ語テクトン)は職人、工匠の意味。
ちなみに、日本人が、ふつうの住宅と記念碑的な建築を分けて考えるようになったのは、明治に入ってからで、一八九四年(明治二七年)、最初の建築史家で理論家の伊東忠太が、アーキテクチャーを「建築」と訳し、ふつうの実用的建物(ビルディング)とを分けた。
☆
ちなみに、中馬庚(ちゅうまん・かなえ/ちゅうま・かのえ)が「Baseball」を
初めて「野球」と訳したのも同じ年、明治27年(1894)のことです。
参考文献:藤森照信『フジモリ式建築入門 』(ちくまプリマー新書)
座談会における秋葉四郎の発言で、近代建築好きには、
にやりとさせられる指摘が見受けられました。
☆
この歌で「建築」という語が出てくるでしょ。この『歩道』の時代、昭和15年(1940)くらいまでの戦前には「ビルディング」という言葉がないんです。だから「建築」という言葉あるいは建物になっている。戦後になってビルディングが入ってきて、ビルという言葉でいまは歌を作っているけど、佐太郎は最初は、ビルディングをビルと使うのを嫌がっていたんだけど。
☆
ここで俎上に載っているのは「ビルディング」という語なのですが、
残念なことに、秋葉は「建築」という語自体も歴史が浅いのではないか、
新しめの言葉であるやもしれぬことについて無頓着な気がしました。
(さらに、「建築」と「建物」とではニュアンスもだいぶ異なります)
例えば、ジョサイア・コンドルが工部大学校(東京大学工学部の前身)で
着任したのは“造家学科”でした。その造家学科から巣立っていったのが
辰野金吾や片山東熊らとなります。「建築」ではなく、「造家」だった訳です。
「造家」という語を「建築」に改めたのが、あの伊東忠太。
☆
[古代ギリシャの]市民たちは、芸術を好み、とりわけ彫刻と演劇にすぐれ、またものの本質を考える哲学をよくし、哲学の一つとして数学や科学に大きな成果をあげた。
芸術の本質についても深く考え、彫刻、絵画、建築そして若い女性の裸にも同じ質が潜むとし、“美”という抽象的概念を生み出している。またふつうの住宅と、人々の心をつかむため美しさを求められる神殿などの記念碑的建築を分け、後者にアーキテクチャー(architecture)の名を与えた。アーキ(古代ギリシャ語アルケー)は原理、テクチャー(古代ギリシャ語テクトン)は職人、工匠の意味。
ちなみに、日本人が、ふつうの住宅と記念碑的な建築を分けて考えるようになったのは、明治に入ってからで、一八九四年(明治二七年)、最初の建築史家で理論家の伊東忠太が、アーキテクチャーを「建築」と訳し、ふつうの実用的建物(ビルディング)とを分けた。
☆
ちなみに、中馬庚(ちゅうまん・かなえ/ちゅうま・かのえ)が「Baseball」を
初めて「野球」と訳したのも同じ年、明治27年(1894)のことです。
参考文献:藤森照信『フジモリ式建築入門 』(ちくまプリマー新書)
本野精吾(2)

また日本の20世紀建築史においても外せない
建築家として、アントニン・レーモンド(1888
~1976)の名が挙がります。その弟子・前川
國男、前川の弟子・丹下健三、さらには安藤
忠雄に至るまで、コンクリート打ち放し仕上げの
発達に、大いに貢献してきたわが国の建築界
ですが、ともすれば傍流に追いやられそうな
モダニズム建築家、本野精吾(1882~1944)の
名も看過してはならないところでしょう。“構造や材料そのものの美しさを生かす”
モダニズム建築理論に対して、コンクリートの素材感をどう表現しようとしたのか?
☆
ここでレーモンドからアンドーにいたる栄光の歩みの陰に隠れた一人の建築家のことも書いておこう。京都の本野精吾。父親が読売新聞の創業者で男爵という育ちのせいか経済的にも精神的にも恵まれ、建築に全力を尽くさなかったきらいもあり、レーモンドに比べ建築界での評価は低いけれど、ことコンクリートの表現問題については絶対に忘れるわけにはいかない。
レーモンドが打放しの自邸を東京に造ったのと同じ年に、本野もコンクリートむき出しの自邸を京都に造っている。にもかかわらず長いこと注目されずにきたのは、そのむき出しのコンクリートが打放しじゃなくて、ブロックだったからだ。かくいう私もなんだブロックかと軽く見ていたが、実物を訪れて驚嘆した。ブロック造の安っぽさはまるで感じられず、打放しの兄弟のように目に映る。安藤忠雄のじいさんの作品と言われればそういう気もする。
☆
上記のように藤森照信は語り、コンクリートそのものの材質感をどう表現するか
というテーマに立ち向かった本野の試行錯誤を賛嘆しつつも、「結局打放しという
正解には行き着けなかった」との評価にとどまっていたようです(一時は)。
しかし、そもそも、打ち放しが本当に正解だったのか?
戦後モダニズムの推進者の一人、日建設計の林昌二の疑問符が突き刺さります。
「打放しをコンクリートそのものの表現と言っていいのでしょうか。
あれは、型枠の表現ではないか。打放しに収束しなかった本野精吾の
努力の方がむしろ正解に近いのではないか」
「本野精吾邸」で採用されていた中村式鉄筋コンクリート構造
(=通称「鎮ブロック」)の中にも、鉄筋は仕込まれている訳だから、
コンクリートを打ち込んだ型枠の痕跡と、剥き出しのコンクリート・ブロックの表面の
どちらにコンクリートらしさを感じるか?という問題に置き換えられるような気がします。
近代における“自然”は都市、コンクリート・ジャングルの中にしか見出されないのです。
参考文献:藤森照信『建築史的モンダイ』(ちくま新書)
tag : 近代建築
折々の豆腐(5)
高野公彦(コスモス)
豆腐屋のありし更地に夏の日の無量光ふりそそぎて無音
☆
『角川 短歌 8月号 2017』(角川文化振興財団)から豆腐詠を抽出(敬称略)。
特に何の注釈も要らない、シンプルな歌のようですが……
阿弥陀仏は12の功徳に分けられる“十二光”を発するといわれ、
“無量光”の他、無辺光/無碍光/無対光/燄王光(えんのうこう)/清浄光
(しょうじょうこう)/歓喜光/智慧光/不断光/難思光/無称光/超日月光が
数え上げられるようです。「無量無辺光」とも呼ばれる無量光は、
どのような慰藉を豆腐屋の跡地に与えてくれるというのでしょうか。
町の本屋さんが無くなっていくように、昔ながらの豆腐屋さんも姿を消していきます。
ふと、豆腐屋さんの数がどうなっているのか、久方ぶりに確かめたくなりました。
経済産業省「平成26年工業統計表」によると、その調査年(2014)の
豆腐・油揚製造業の事業所数は1,231、従業者数2万4,779人となっています。
厚生労働省「平成27年度衛生行政報告例」に当たってみますと、
許可を要する食品関係営業施設数のうち、平成27年度末の
豆腐製造業の営業施設数7,525……無論、全国における総数。
豆腐屋のありし更地に夏の日の無量光ふりそそぎて無音
☆
『角川 短歌 8月号 2017』(角川文化振興財団)から豆腐詠を抽出(敬称略)。
特に何の注釈も要らない、シンプルな歌のようですが……
阿弥陀仏は12の功徳に分けられる“十二光”を発するといわれ、
“無量光”の他、無辺光/無碍光/無対光/燄王光(えんのうこう)/清浄光
(しょうじょうこう)/歓喜光/智慧光/不断光/難思光/無称光/超日月光が
数え上げられるようです。「無量無辺光」とも呼ばれる無量光は、
どのような慰藉を豆腐屋の跡地に与えてくれるというのでしょうか。
町の本屋さんが無くなっていくように、昔ながらの豆腐屋さんも姿を消していきます。
ふと、豆腐屋さんの数がどうなっているのか、久方ぶりに確かめたくなりました。
経済産業省「平成26年工業統計表」によると、その調査年(2014)の
豆腐・油揚製造業の事業所数は1,231、従業者数2万4,779人となっています。
厚生労働省「平成27年度衛生行政報告例」に当たってみますと、
許可を要する食品関係営業施設数のうち、平成27年度末の
豆腐製造業の営業施設数7,525……無論、全国における総数。
こぐまちゃん
「大阪市立クラフトパーク」からの帰途は、
地下鉄・谷町線の長原駅まで歩き、天王寺で
途中下車。「信濃」で和みたかったのですが、
日曜日は定休日なのでしょうか?
「森田屋」に並ぶ気力も残っていないし、
“あべちか”に潜り込みました。
「しもたや」、「半田屋」を見送ると、
鉄板焼酒場「弦さん」で軽く呑み喰い。
有機豆腐とつくねを切らしていましたねえ。
締めに冷たい物が欲しくなったので、「心斎橋ミツヤ」へふらふらと。
ケーキ・セットで、アップル・パイも注文しました。
しっとりとして、みっちりと食べ応えのある林檎の果肉を味わい、珈琲を飲み。
そして、かき氷の“こぐまちゃん”はミルク味を愉しみました。
“白くま”については、そのボリューム、ふんだんなフルーツの使用など、
ぼくは鹿児島の「天文館むじゃき」のオリジナルを信奉する
ガチガチの原理主義者ですけれども、こぐまちゃんは許します(可愛いし)。
“丹波のミルク氷”ほどではないですが、ふわふわ感もありますよ。

地下鉄・谷町線の長原駅まで歩き、天王寺で
途中下車。「信濃」で和みたかったのですが、
日曜日は定休日なのでしょうか?
「森田屋」に並ぶ気力も残っていないし、
“あべちか”に潜り込みました。
「しもたや」、「半田屋」を見送ると、
鉄板焼酒場「弦さん」で軽く呑み喰い。
有機豆腐とつくねを切らしていましたねえ。
締めに冷たい物が欲しくなったので、「心斎橋ミツヤ」へふらふらと。
ケーキ・セットで、アップル・パイも注文しました。
しっとりとして、みっちりと食べ応えのある林檎の果肉を味わい、珈琲を飲み。
そして、かき氷の“こぐまちゃん”はミルク味を愉しみました。
“白くま”については、そのボリューム、ふんだんなフルーツの使用など、
ぼくは鹿児島の「天文館むじゃき」のオリジナルを信奉する
ガチガチの原理主義者ですけれども、こぐまちゃんは許します(可愛いし)。
“丹波のミルク氷”ほどではないですが、ふわふわ感もありますよ。
大阪市立クラフトパーク

体験入学に出掛けました。大阪市営地下鉄・
谷町線の出戸駅で下車。滅多に使わない駅で
わくわく感。市バスに乗って、クラフトパークへ。
この日は“体験入学”の最終日だったのです。
13時半からオリエンテーションが始まり、8教室
13コースの紹介が、実際の教室の見学とともに
行われました。その後、実際に希望する工房に
入って、2~3時間ばかり、講座内容に触れて
みることになります。ぼくは金工教室(装飾品コース/工芸品コース)に入室します。
取り扱っている金属は、主に銀、銅、真鍮、錫でした。2人の指導員が付き、
ハンマーや鑢(やすり)だけでなく、ガス・バーナーなども使用しました。
希硫酸液も用意されていて、大昔、バイトしたガラス工場の現場を思い出し。
その時はどうもなくとも、後から衣服に穴が開いていたりするのですよね。
銀の縒り線リングはどうにかこうにか、形になったかと思われます。
銅のマドラー(スプーン)は何とも悪戦苦闘。銅の棒を叩いて延ばすだけ
なんですが、手に癖があるのか、どうしても凹みの部分が片側に寄ってしまう。
最初にトライした部分は切り捨て、気持ち程度、広げたところでやめて、
後はカットして、鑢をかけて誤魔化しました。先端に錫を引いて完成です。
30分ほど余った時間は、真鍮の細板を叩いて、バングルの作製。
作ること自体は楽しいのですが、ぼくのハンマー使いの拙さに汗顔の至り。
いずれ手を染めたいのは陶芸コース。茶菓を頂いて、解散となりました。
tag : 金工
関西電力 京都支店
「白河院」の数寄屋造りの建物を観に行った日、嗚呼、
あれも武田五一(1872~1938)の設計だったのか!と、
改めて「関西電力 京都支店」を見物しましたよ。
JR京都駅の北側、塩小路通を渡った所に建っており、
京都タワーよりは西に在ります。すぐ東側に「京都
新阪急ホテル」が迫っているのですが、“カド丸”
だったりします。竣工は昭和12年(1937)で、元は
琵琶湖疏水による水力発電を行っていた「京都電燈」
旧本社ビルでした。鉄筋コンクリート造り、8階建て。
黒御影石を使ったエントランスや格子状の窓枠が
スクエアな印象を強めているので、南東隅の角マルに
ほっとさせられますね。しかし、意識して観てしまうと
全面に貼られたベージュ色のタイルが、武田五一以外の何者でもない不思議……。

あれも武田五一(1872~1938)の設計だったのか!と、
改めて「関西電力 京都支店」を見物しましたよ。
JR京都駅の北側、塩小路通を渡った所に建っており、
京都タワーよりは西に在ります。すぐ東側に「京都
新阪急ホテル」が迫っているのですが、“カド丸”
だったりします。竣工は昭和12年(1937)で、元は
琵琶湖疏水による水力発電を行っていた「京都電燈」
旧本社ビルでした。鉄筋コンクリート造り、8階建て。
黒御影石を使ったエントランスや格子状の窓枠が
スクエアな印象を強めているので、南東隅の角マルに
ほっとさせられますね。しかし、意識して観てしまうと
全面に貼られたベージュ色のタイルが、武田五一以外の何者でもない不思議……。
tag : 近代建築