「建築」事始め
『角川 短歌 8月号 2017』の特集は佐藤佐太郎没後30年。
座談会における秋葉四郎の発言で、近代建築好きには、
にやりとさせられる指摘が見受けられました。
☆
この歌で「建築」という語が出てくるでしょ。この『歩道』の時代、昭和15年(1940)くらいまでの戦前には「ビルディング」という言葉がないんです。だから「建築」という言葉あるいは建物になっている。戦後になってビルディングが入ってきて、ビルという言葉でいまは歌を作っているけど、佐太郎は最初は、ビルディングをビルと使うのを嫌がっていたんだけど。
☆
ここで俎上に載っているのは「ビルディング」という語なのですが、
残念なことに、秋葉は「建築」という語自体も歴史が浅いのではないか、
新しめの言葉であるやもしれぬことについて無頓着な気がしました。
(さらに、「建築」と「建物」とではニュアンスもだいぶ異なります)
例えば、ジョサイア・コンドルが工部大学校(東京大学工学部の前身)で
着任したのは“造家学科”でした。その造家学科から巣立っていったのが
辰野金吾や片山東熊らとなります。「建築」ではなく、「造家」だった訳です。
「造家」という語を「建築」に改めたのが、あの伊東忠太。
☆
[古代ギリシャの]市民たちは、芸術を好み、とりわけ彫刻と演劇にすぐれ、またものの本質を考える哲学をよくし、哲学の一つとして数学や科学に大きな成果をあげた。
芸術の本質についても深く考え、彫刻、絵画、建築そして若い女性の裸にも同じ質が潜むとし、“美”という抽象的概念を生み出している。またふつうの住宅と、人々の心をつかむため美しさを求められる神殿などの記念碑的建築を分け、後者にアーキテクチャー(architecture)の名を与えた。アーキ(古代ギリシャ語アルケー)は原理、テクチャー(古代ギリシャ語テクトン)は職人、工匠の意味。
ちなみに、日本人が、ふつうの住宅と記念碑的な建築を分けて考えるようになったのは、明治に入ってからで、一八九四年(明治二七年)、最初の建築史家で理論家の伊東忠太が、アーキテクチャーを「建築」と訳し、ふつうの実用的建物(ビルディング)とを分けた。
☆
ちなみに、中馬庚(ちゅうまん・かなえ/ちゅうま・かのえ)が「Baseball」を
初めて「野球」と訳したのも同じ年、明治27年(1894)のことです。
参考文献:藤森照信『フジモリ式建築入門 』(ちくまプリマー新書)
座談会における秋葉四郎の発言で、近代建築好きには、
にやりとさせられる指摘が見受けられました。
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この歌で「建築」という語が出てくるでしょ。この『歩道』の時代、昭和15年(1940)くらいまでの戦前には「ビルディング」という言葉がないんです。だから「建築」という言葉あるいは建物になっている。戦後になってビルディングが入ってきて、ビルという言葉でいまは歌を作っているけど、佐太郎は最初は、ビルディングをビルと使うのを嫌がっていたんだけど。
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ここで俎上に載っているのは「ビルディング」という語なのですが、
残念なことに、秋葉は「建築」という語自体も歴史が浅いのではないか、
新しめの言葉であるやもしれぬことについて無頓着な気がしました。
(さらに、「建築」と「建物」とではニュアンスもだいぶ異なります)
例えば、ジョサイア・コンドルが工部大学校(東京大学工学部の前身)で
着任したのは“造家学科”でした。その造家学科から巣立っていったのが
辰野金吾や片山東熊らとなります。「建築」ではなく、「造家」だった訳です。
「造家」という語を「建築」に改めたのが、あの伊東忠太。
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[古代ギリシャの]市民たちは、芸術を好み、とりわけ彫刻と演劇にすぐれ、またものの本質を考える哲学をよくし、哲学の一つとして数学や科学に大きな成果をあげた。
芸術の本質についても深く考え、彫刻、絵画、建築そして若い女性の裸にも同じ質が潜むとし、“美”という抽象的概念を生み出している。またふつうの住宅と、人々の心をつかむため美しさを求められる神殿などの記念碑的建築を分け、後者にアーキテクチャー(architecture)の名を与えた。アーキ(古代ギリシャ語アルケー)は原理、テクチャー(古代ギリシャ語テクトン)は職人、工匠の意味。
ちなみに、日本人が、ふつうの住宅と記念碑的な建築を分けて考えるようになったのは、明治に入ってからで、一八九四年(明治二七年)、最初の建築史家で理論家の伊東忠太が、アーキテクチャーを「建築」と訳し、ふつうの実用的建物(ビルディング)とを分けた。
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ちなみに、中馬庚(ちゅうまん・かなえ/ちゅうま・かのえ)が「Baseball」を
初めて「野球」と訳したのも同じ年、明治27年(1894)のことです。
参考文献:藤森照信『フジモリ式建築入門 』(ちくまプリマー新書)
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