清張嫌い
「三島由紀夫」論と呼ぶには、独特の屈託がまだるっこしく、
平易なように見えるからこそ、かえって、矯められたバイアスが
不穏に思えてならない橋本治姐さんの『「三島由紀夫」とは
なにものだったのか』を読んでいて、掛け値無しに目から鱗
だったのが、「松本清張を拒絶する三島由紀夫」の章でした。
昔、中央公論社で『日本の文学』という全集を出そうとした際、
「松本清張集」という一巻を立てたいという会社の希望に反して、
編集委員の三島が絶対に駄目と反対を申し出、流れたそうです。
他方、三島が面前で「あなたの文学は嫌いです」と痛罵した
太宰治は、その全集に一巻を設けられているにも関わらず……
そこからが、橋本姐さんの推理の凄さなのですけれど、三島は
清張に“嫉妬”していた、故に拒絶したと語るのですね。えぇっ!
文壇上の地位云々を抜きにしても、三島と清張では水と油、
比較対照する意味がわからない。なのですが、実は両者ともに
「現実の事件を題材にする作家」なのでした。橋本姐さんは言います。
☆
松本清張は現実の事件を自分の手許に引き寄せる。自分の掌の中で、自分自身の推理によって、もう一度再構築する。松本清張は、三島由紀夫よりずっと事件に近寄って、しかし、事件とは遠いところで再構築をする。一方三島由紀夫は、事件から遥かに遠いところにいて、そのくせ、事件のど真ん中に乗り込んで、そこで再構築を始めてしまうのである。出来上がったものは、どちらも「よく出来たお話」である。
☆
引用個所だけだと、わかりづらい文章ですねえ。優しい語り口のようで、
姐さんの論理は同類間で、頷き合っているような雰囲気もあって、曖昧。
噛み砕いて言うと、同じ道具立てを用いながらも、三島は彼オリジナルの
心理や主張を現実の事件の渦中に投げ込んで、「三島の世界」を創るのです。
一方で、清張は距離感を保ったまま、普通の生活人が巻き込まれた事件を
淡々と描出します。言わば、ジャーナリズム的なリアリズムに接近しています。
☆
三島由紀夫の側に立ったら、松本清張の作品は、どのように見えるのか? おそらく、「大人の小説」のように見えるだろう。そして、自分の小説は、「子どものようなこじつけ小説」に見えてしまうことだろう。
☆
両者の間に“森鴎外”という補助線を引けば、より明瞭になるのでは。
おそらく、三島が鴎外から学ぼうとしていた簡素雄勁な文章に対して、
全くの逆方向から、無味乾燥に近いまでの形で投げ出された
清張作品は、三島に鼻白む思いを抱かせるに十分だったでしょうし。
ところで、ミステリー・マニアだったぼくの少年時代、松本清張は当然
一読していましたが、何というか、退屈な読後感がふわりと揺曳しては、
本当に人気作家なのか?という疑問が常に湧き上がってくるのでした。
時代のせいもありまして、ぼく個人は横溝正史や赤川次郎を愛読
していたものです。喜んで濫読しながら、心のどこかで、観念で拵えた
細工物への偏愛を後ろめたく感じ、「大人の小説」然とした清張への
苛立ちも隠せず……あの時代を思い起こしました。清張は清張で構わないのにね。
参考文献:橋本治『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』(新潮文庫)
平易なように見えるからこそ、かえって、矯められたバイアスが
不穏に思えてならない橋本治姐さんの『「三島由紀夫」とは
なにものだったのか』を読んでいて、掛け値無しに目から鱗
だったのが、「松本清張を拒絶する三島由紀夫」の章でした。
昔、中央公論社で『日本の文学』という全集を出そうとした際、
「松本清張集」という一巻を立てたいという会社の希望に反して、
編集委員の三島が絶対に駄目と反対を申し出、流れたそうです。
他方、三島が面前で「あなたの文学は嫌いです」と痛罵した
太宰治は、その全集に一巻を設けられているにも関わらず……
そこからが、橋本姐さんの推理の凄さなのですけれど、三島は
清張に“嫉妬”していた、故に拒絶したと語るのですね。えぇっ!
文壇上の地位云々を抜きにしても、三島と清張では水と油、
比較対照する意味がわからない。なのですが、実は両者ともに
「現実の事件を題材にする作家」なのでした。橋本姐さんは言います。
☆
松本清張は現実の事件を自分の手許に引き寄せる。自分の掌の中で、自分自身の推理によって、もう一度再構築する。松本清張は、三島由紀夫よりずっと事件に近寄って、しかし、事件とは遠いところで再構築をする。一方三島由紀夫は、事件から遥かに遠いところにいて、そのくせ、事件のど真ん中に乗り込んで、そこで再構築を始めてしまうのである。出来上がったものは、どちらも「よく出来たお話」である。
☆
引用個所だけだと、わかりづらい文章ですねえ。優しい語り口のようで、
姐さんの論理は同類間で、頷き合っているような雰囲気もあって、曖昧。
噛み砕いて言うと、同じ道具立てを用いながらも、三島は彼オリジナルの
心理や主張を現実の事件の渦中に投げ込んで、「三島の世界」を創るのです。
一方で、清張は距離感を保ったまま、普通の生活人が巻き込まれた事件を
淡々と描出します。言わば、ジャーナリズム的なリアリズムに接近しています。
☆
三島由紀夫の側に立ったら、松本清張の作品は、どのように見えるのか? おそらく、「大人の小説」のように見えるだろう。そして、自分の小説は、「子どものようなこじつけ小説」に見えてしまうことだろう。
☆
両者の間に“森鴎外”という補助線を引けば、より明瞭になるのでは。
おそらく、三島が鴎外から学ぼうとしていた簡素雄勁な文章に対して、
全くの逆方向から、無味乾燥に近いまでの形で投げ出された
清張作品は、三島に鼻白む思いを抱かせるに十分だったでしょうし。
ところで、ミステリー・マニアだったぼくの少年時代、松本清張は当然
一読していましたが、何というか、退屈な読後感がふわりと揺曳しては、
本当に人気作家なのか?という疑問が常に湧き上がってくるのでした。
時代のせいもありまして、ぼく個人は横溝正史や赤川次郎を愛読
していたものです。喜んで濫読しながら、心のどこかで、観念で拵えた
細工物への偏愛を後ろめたく感じ、「大人の小説」然とした清張への
苛立ちも隠せず……あの時代を思い起こしました。清張は清張で構わないのにね。
参考文献:橋本治『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』(新潮文庫)
スポンサーサイト
tag : 小説