午後の栄光
8月の「二人の読書会」の課題テクストは、
三島由紀夫の『午後の曳航』なのですが、
三島の作品の中では、昔から何度も繰り返し
読んだ部類の方で、イデオロギー的な云々は無しにして、
何がぼくを惹き付けるのかというと、実にシンプル。
残虐趣味、血に彩られたグラン・ギニョールです。
言い訳でしかないマゾヒズムに毒されない、サディズムの強度。
サディズムをスパイスめいた単なる性的嗜好と曲解したがる
怯懦な輩は多いですけれども、サディズムこそが“思想”です。
澁澤龍彦の『午後の曳航』評を抜粋してみましょう。
☆
わたしは、『美しい星』も『午後の曳航』も、一種のユートピア小説だと納得している。前者においては「宇宙」、後者においては「海」が、行為と認識の完全に一致する奇跡の領域である。しかし、そんな領域は現実にはあり得ないから、このユートピア小説は必然に絶望小説たらざるを得ない。
☆
もし、この作品が船乗り・塚崎竜二の視点のみで語られていたとしたら、
他の三島作品においてしばしば見受けられるマゾヒスティックな
自慰的告白の一編として一蹴していたかもしれませんね。しかし、
劈頭から、13歳の少年・黒田登の視点を持ち込んだことにより、
受動的な死の悦楽ではなく、能動的に“殺す”側の論理が燦然と輝きます。
三島自身が澁澤の書評に対して返した手紙の一節を引用しましょう。
☆
ラストでは殺し場を二十枚ほど書いたのですが、あまり芝居じみるので破棄したものの、もっとも書きたかったのはそこであり、ボウドレエルのいはゆる「死刑囚にして死刑執行人」たる小生の内面のグラン・ギニョールであったのです。健康なる文壇人から理解されぬものばかり書きたくなる小生は、お言葉のとほり、一等奇怪な道へ進みつつあります。即ち精神の単性生殖、少年時代の自分自身と一緒に寝るといふ不可能な熾烈な夢、少年時代の自分に殺されたいといふ甘い滅亡の夢、これらの狂気の兆候のかずかずが作品制作の原動力になりました。タイムマシーンによる殺人と自殺が、これを叶へる唯一の方法かもしれません。
☆
「タイムマシーンによる殺人」で止めればよいのに、
「殺されたい」という受け身の姿勢は不要なのに
……と、いろいろ思うのですが、そこが三島の文学臭であり、
“行為”に憧れながらも、常に“行為”に遅れを取り続け、
取り残されてしまうという文学者の有り様なのでしょうか。
ニーチェの措定した良き(gut)、強き者の在り方とは程遠く。
ところで、ラストの一文「誰も知るように、栄光の味は苦い」から
明らかなように、タイトルは「午後の栄光(=曳航)」の地口ですよねえ。
“曳航”だと海水だから、塩辛いのか。かっちりと、決まっています。
参考文献:三島由紀夫『午後の曳航』(新潮文庫)
澁澤龍彦『三島由紀夫おぼえがき』(中公文庫)
三島由紀夫の『午後の曳航』なのですが、
三島の作品の中では、昔から何度も繰り返し
読んだ部類の方で、イデオロギー的な云々は無しにして、
何がぼくを惹き付けるのかというと、実にシンプル。
残虐趣味、血に彩られたグラン・ギニョールです。
言い訳でしかないマゾヒズムに毒されない、サディズムの強度。
サディズムをスパイスめいた単なる性的嗜好と曲解したがる
怯懦な輩は多いですけれども、サディズムこそが“思想”です。
澁澤龍彦の『午後の曳航』評を抜粋してみましょう。
☆
わたしは、『美しい星』も『午後の曳航』も、一種のユートピア小説だと納得している。前者においては「宇宙」、後者においては「海」が、行為と認識の完全に一致する奇跡の領域である。しかし、そんな領域は現実にはあり得ないから、このユートピア小説は必然に絶望小説たらざるを得ない。
☆
もし、この作品が船乗り・塚崎竜二の視点のみで語られていたとしたら、
他の三島作品においてしばしば見受けられるマゾヒスティックな
自慰的告白の一編として一蹴していたかもしれませんね。しかし、
劈頭から、13歳の少年・黒田登の視点を持ち込んだことにより、
受動的な死の悦楽ではなく、能動的に“殺す”側の論理が燦然と輝きます。
三島自身が澁澤の書評に対して返した手紙の一節を引用しましょう。
☆
ラストでは殺し場を二十枚ほど書いたのですが、あまり芝居じみるので破棄したものの、もっとも書きたかったのはそこであり、ボウドレエルのいはゆる「死刑囚にして死刑執行人」たる小生の内面のグラン・ギニョールであったのです。健康なる文壇人から理解されぬものばかり書きたくなる小生は、お言葉のとほり、一等奇怪な道へ進みつつあります。即ち精神の単性生殖、少年時代の自分自身と一緒に寝るといふ不可能な熾烈な夢、少年時代の自分に殺されたいといふ甘い滅亡の夢、これらの狂気の兆候のかずかずが作品制作の原動力になりました。タイムマシーンによる殺人と自殺が、これを叶へる唯一の方法かもしれません。
☆
「タイムマシーンによる殺人」で止めればよいのに、
「殺されたい」という受け身の姿勢は不要なのに
……と、いろいろ思うのですが、そこが三島の文学臭であり、
“行為”に憧れながらも、常に“行為”に遅れを取り続け、
取り残されてしまうという文学者の有り様なのでしょうか。
ニーチェの措定した良き(gut)、強き者の在り方とは程遠く。
ところで、ラストの一文「誰も知るように、栄光の味は苦い」から
明らかなように、タイトルは「午後の栄光(=曳航)」の地口ですよねえ。
“曳航”だと海水だから、塩辛いのか。かっちりと、決まっています。
参考文献:三島由紀夫『午後の曳航』(新潮文庫)
澁澤龍彦『三島由紀夫おぼえがき』(中公文庫)
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tag : 小説