大大阪モダニズム
ご近所過ぎて、出来た当初から足繁く通っていたせいもあり、
逆に、触れることの少なかった「大阪市立住まいのミュージアム」は
大阪市北区天神橋6丁目4−20 に位置する「住まい情報センタービル」の
8~10階を占めています。近世の大坂の町並みをリアルに復元した
「大阪くらしの今昔館」では、故・桂米朝師匠のナレーションも聴けます。
鱧しゃぶを賞味に出掛けた8月31日(金)、身体が空いていた日中、
久しぶりに訪れてみて、びっくり。キタやミナミの繁華街どころではなく、
着物姿のアジアの観光客らが、8階フロアにひしめき合っていました。
気をしっかり持って、受付窓口へ向かいます。今回のぼくの目的は
「大阪くらしの今昔館」でなくして、企画展示室にあったのですから。
☆
大正元年(1912)、大阪の建築界で2大コンペ(設計競技)が行われました。
「大阪市役所庁舎」と「大阪市公会堂」(=現「大阪市中央公会堂」)です。
一等に岡田信一郎の案が選ばれ、辰野片岡事務所が実施設計を担当。
大正7年(1918)11月17日、大阪市(中央)公会堂の落成奉告祭が開かれ、
今年はちょうど100年。“大阪市中央公会堂開館100周年記念”として企画
されたのが、特別展「大大阪モダニズム」となります。中之島公会堂の
実施設計を手掛けた事務所名に戻りましょう。辰野は大御所・辰野金吾、
片岡は金吾の弟子である片岡安(1876~1946)。金吾と比べてしまい、
うっかり、建築家としては過小評価しかねませんが、どっこい、実力者です。
当時の日本銀行大阪支店長・片岡直輝の弟、片岡直温(なおはる)が
同時期の日本生命保険の副社長で、片岡は直温の婿養子でもありました。
一建築家にとどまらず、都市計画の制度化、日本建築協会、関西工学専修
学校(=現・大阪工業大学)の設立など、産業経済の分野に大きく寄与貢献。
特別展の副題に「片岡安の仕事と都市の文化」と掲げられているように。
☆
ところで、“大大阪”の“大”とは、本来、「greater」の訳語。行政用語として
都市と周辺地域などを含めた地域を指す用法が専らですが、スローガン的に
「偉大(great)」を誇示するような意味合いの方へずれ込んでいった模様。
大正14年(1925)4月1日、第二次市域拡張によって、大阪市は面積が約182
平方km、人口が約211万人と膨れ上がり、日本一の巨大都市「大大阪」が
誕生する訳です。その時代、元々都市計画学者であり、大阪市助役~市長
(7代目)を務めた関一の説く都市計画の本質に対して、在野の建築家の
立場から積極的に応えていったのが、片岡だったのでしょう。“道路”と“街路
(street)”を区別し、建築物だけでなく、幹線道路も射程に含めて都市を考える
思考法がクール。ル・コルビュジエもそうでした……単体の建築物のみならず、
街を全体として構想する……考えれば当たり前のことだけれど、極めて難しく。
会場は、Ⅰ 大大阪への道程、Ⅱ 大大阪の精華、Ⅲ 大大阪を愉しむ――に
分けられており、近代建築に関する物件、写真(橋の燈柱が最高!)は、
もちろん、大大阪を描いた絵画がじんと染みましたよ。池田遥邨「雨の大阪」、
小出楢重「雪の市街風景」「街景」、佐伯祐三「肥後橋風景」が良くってねえ。
また、前田藤四郎の「屋上運動」などを見た日には、「船場ビルディング」へ
駆け付けたくなること、必定です。期待以上に大興奮させられた企画展でした。
参考文献:『大大阪モダニズム』(学校法人常翔学園常翔歴史館、大阪市立住まいのミュージアム)
逆に、触れることの少なかった「大阪市立住まいのミュージアム」は
大阪市北区天神橋6丁目4−20 に位置する「住まい情報センタービル」の
8~10階を占めています。近世の大坂の町並みをリアルに復元した
「大阪くらしの今昔館」では、故・桂米朝師匠のナレーションも聴けます。
鱧しゃぶを賞味に出掛けた8月31日(金)、身体が空いていた日中、
久しぶりに訪れてみて、びっくり。キタやミナミの繁華街どころではなく、
着物姿のアジアの観光客らが、8階フロアにひしめき合っていました。
気をしっかり持って、受付窓口へ向かいます。今回のぼくの目的は
「大阪くらしの今昔館」でなくして、企画展示室にあったのですから。
☆
大正元年(1912)、大阪の建築界で2大コンペ(設計競技)が行われました。
「大阪市役所庁舎」と「大阪市公会堂」(=現「大阪市中央公会堂」)です。
一等に岡田信一郎の案が選ばれ、辰野片岡事務所が実施設計を担当。
大正7年(1918)11月17日、大阪市(中央)公会堂の落成奉告祭が開かれ、
今年はちょうど100年。“大阪市中央公会堂開館100周年記念”として企画
されたのが、特別展「大大阪モダニズム」となります。中之島公会堂の
実施設計を手掛けた事務所名に戻りましょう。辰野は大御所・辰野金吾、
片岡は金吾の弟子である片岡安(1876~1946)。金吾と比べてしまい、
うっかり、建築家としては過小評価しかねませんが、どっこい、実力者です。
当時の日本銀行大阪支店長・片岡直輝の弟、片岡直温(なおはる)が
同時期の日本生命保険の副社長で、片岡は直温の婿養子でもありました。
一建築家にとどまらず、都市計画の制度化、日本建築協会、関西工学専修
学校(=現・大阪工業大学)の設立など、産業経済の分野に大きく寄与貢献。
特別展の副題に「片岡安の仕事と都市の文化」と掲げられているように。
☆
ところで、“大大阪”の“大”とは、本来、「greater」の訳語。行政用語として
都市と周辺地域などを含めた地域を指す用法が専らですが、スローガン的に
「偉大(great)」を誇示するような意味合いの方へずれ込んでいった模様。
大正14年(1925)4月1日、第二次市域拡張によって、大阪市は面積が約182
平方km、人口が約211万人と膨れ上がり、日本一の巨大都市「大大阪」が
誕生する訳です。その時代、元々都市計画学者であり、大阪市助役~市長
(7代目)を務めた関一の説く都市計画の本質に対して、在野の建築家の
立場から積極的に応えていったのが、片岡だったのでしょう。“道路”と“街路
(street)”を区別し、建築物だけでなく、幹線道路も射程に含めて都市を考える
思考法がクール。ル・コルビュジエもそうでした……単体の建築物のみならず、
街を全体として構想する……考えれば当たり前のことだけれど、極めて難しく。
会場は、Ⅰ 大大阪への道程、Ⅱ 大大阪の精華、Ⅲ 大大阪を愉しむ――に
分けられており、近代建築に関する物件、写真(橋の燈柱が最高!)は、
もちろん、大大阪を描いた絵画がじんと染みましたよ。池田遥邨「雨の大阪」、
小出楢重「雪の市街風景」「街景」、佐伯祐三「肥後橋風景」が良くってねえ。
また、前田藤四郎の「屋上運動」などを見た日には、「船場ビルディング」へ
駆け付けたくなること、必定です。期待以上に大興奮させられた企画展でした。
参考文献:『大大阪モダニズム』(学校法人常翔学園常翔歴史館、大阪市立住まいのミュージアム)
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テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。
ジャンル : 学問・文化・芸術