呂太夫と吉朝
ぼくの大好きだった桂吉朝(1954~2005)と、
六代豊竹呂太夫の出会い等について、
詳しくわかったので、忘れないように転記しておきます。
六代呂太夫の前名が豊竹英太夫(三代)。
☆
第二回の「英太夫の会」は平成十六年十月十四日、東京南青山の銕仙会(てっせんかい)能楽研修所で、あとでお話しする落語家の桂吉朝さんがゲストとしてきてくれました。対談のあと、吉朝さんの落語で「住吉駕籠」。そのあと僕は清友さんの三味線で『摂州合邦辻』「合邦住家の段」を語りました。この演目は祖父若太夫の代表的な語りものでした。はじめのうちは声が開かんなぁと思たんですけど、徐々に開いていって、何とか全開したという感じでした。
☆
文之助さんもそうですけど、落語家さんとはいろいろお付き合いさせてもろてます。僕の素浄瑠璃の会に来ていただいたり、コラボレーションとして催しをしたり。桂米朝一門の方々が多いんですが、同じクリスチャンということで、亡くなった露の五郎兵衛師匠ともご一緒させていただいたことがあります。中でも親しくさせていただいてたのが将来の上方落語を背負って立つと言われてはった桂吉朝さんです。僕の義太夫教室にも来てくださいましたし、仕事も何度かご一緒させていただきました。「落語と文楽のあやしい関係」という催しもありましたね。平成十三年二月二十四日に大阪のHEPホールで吉朝さんとトークをして、吉朝さんが「胴乱の幸助」、僕は清友さんと『桂川連理柵』「帯屋」の前を語りました。平成十五年七月十一日には同じHEPホールで吉朝さんが「猫の忠信」、僕が『義経千本桜』「河連法眼館の段」。なるほどあやしい関係ですね。
吉朝さんはほんまに上品なええ人でした。……けっこう毒舌やったけどね。どういうわけか僕の浄瑠璃を買ってくれましてね。「将来は絶対、英(はなふさ)さんの時代になる」とまで言うてくださって、文楽に来たら客席から必ず「英太夫!」と声をかけてくれました。それで、「浄瑠璃を教えてくれ、浄瑠璃教室をやってくれ」と言われて、浪速区の湊町で教室を始めたんです。ところが、平成十七年十一月八日、五十一歳の誕生日を目前にして亡くなりました。大事な友人、仲間ですから今も写真を飾ってます。亡くなる直前の十月二十七日には、ほかならぬ国立文楽劇場で「米朝吉朝の会」がありまして、家内と一緒に聴きに行きました。ほんとにすごかった。とにかく終わってから拍手が鳴り止まんのですから。これが最後の舞台って、みんな思ってたんやろね。僕は吉朝さんが出てこられた時に「グレイト吉朝!」、終わった時に「大当たり!」と声を掛けたんです。その時のライブCDが、亡くなったあとの「送る会」で配られたんですけど、そこにはっきり僕の声が入ってます。「米朝吉朝の会」の翌日、「昨日のかけ声、ありがとうございました」と電話がありましたが、吉朝さんとの会話はそれが最後でした。
参考文献:六代豊竹呂太夫/片山剛『文楽・六代豊竹呂太夫 五感のかなたへ』(創元社)
六代豊竹呂太夫の出会い等について、
詳しくわかったので、忘れないように転記しておきます。
六代呂太夫の前名が豊竹英太夫(三代)。
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第二回の「英太夫の会」は平成十六年十月十四日、東京南青山の銕仙会(てっせんかい)能楽研修所で、あとでお話しする落語家の桂吉朝さんがゲストとしてきてくれました。対談のあと、吉朝さんの落語で「住吉駕籠」。そのあと僕は清友さんの三味線で『摂州合邦辻』「合邦住家の段」を語りました。この演目は祖父若太夫の代表的な語りものでした。はじめのうちは声が開かんなぁと思たんですけど、徐々に開いていって、何とか全開したという感じでした。
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文之助さんもそうですけど、落語家さんとはいろいろお付き合いさせてもろてます。僕の素浄瑠璃の会に来ていただいたり、コラボレーションとして催しをしたり。桂米朝一門の方々が多いんですが、同じクリスチャンということで、亡くなった露の五郎兵衛師匠ともご一緒させていただいたことがあります。中でも親しくさせていただいてたのが将来の上方落語を背負って立つと言われてはった桂吉朝さんです。僕の義太夫教室にも来てくださいましたし、仕事も何度かご一緒させていただきました。「落語と文楽のあやしい関係」という催しもありましたね。平成十三年二月二十四日に大阪のHEPホールで吉朝さんとトークをして、吉朝さんが「胴乱の幸助」、僕は清友さんと『桂川連理柵』「帯屋」の前を語りました。平成十五年七月十一日には同じHEPホールで吉朝さんが「猫の忠信」、僕が『義経千本桜』「河連法眼館の段」。なるほどあやしい関係ですね。
吉朝さんはほんまに上品なええ人でした。……けっこう毒舌やったけどね。どういうわけか僕の浄瑠璃を買ってくれましてね。「将来は絶対、英(はなふさ)さんの時代になる」とまで言うてくださって、文楽に来たら客席から必ず「英太夫!」と声をかけてくれました。それで、「浄瑠璃を教えてくれ、浄瑠璃教室をやってくれ」と言われて、浪速区の湊町で教室を始めたんです。ところが、平成十七年十一月八日、五十一歳の誕生日を目前にして亡くなりました。大事な友人、仲間ですから今も写真を飾ってます。亡くなる直前の十月二十七日には、ほかならぬ国立文楽劇場で「米朝吉朝の会」がありまして、家内と一緒に聴きに行きました。ほんとにすごかった。とにかく終わってから拍手が鳴り止まんのですから。これが最後の舞台って、みんな思ってたんやろね。僕は吉朝さんが出てこられた時に「グレイト吉朝!」、終わった時に「大当たり!」と声を掛けたんです。その時のライブCDが、亡くなったあとの「送る会」で配られたんですけど、そこにはっきり僕の声が入ってます。「米朝吉朝の会」の翌日、「昨日のかけ声、ありがとうございました」と電話がありましたが、吉朝さんとの会話はそれが最後でした。
参考文献:六代豊竹呂太夫/片山剛『文楽・六代豊竹呂太夫 五感のかなたへ』(創元社)
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