香水閣
「秋篠寺」の復習――。秋篠寺(奈良市秋篠町757)は、
奈良時代末期、宝亀7年(776)、光仁天皇の勅願に
よって、平城宮大極殿の高台に造営されました。開基は
法相宗の僧、善珠。ただし、秋篠氏の氏寺であった
一寺院に対して、光仁天皇が善珠僧正を招じて勅願寺と
したとみる説も有り。承和初年(834)、常暁律師により、
「大元帥御修法(たいげんのみしほ)」を伝来。その尊法を
実際に得たのは渡海入唐の折ですが、奇しくも、常暁は
それ以前に、秋篠寺の閼伽井(あかい)の水面に「大元帥
(たいげん)明王」の姿を目撃していたそうです。井戸の
水底に映った自身の背後に、巨大なる憤怒の異相で
化現していた、と。機縁の故に、明治4年(1871)まで
例年1月7日、禁裏御香水所として献泉の儀を務めて
いたのが、秋篠寺の「香水閣」となります。東門から入ると
すぐの位置に在り、門柱には「清浄香水」「味如甘露」の文字が
刻まれています。6月6日に限り、参拝客にも振る舞われるらしく、
仏像拝観の帰りに立ち寄りました。長い柄杓で汲まれた水を
茶碗から頂きましたよ。冷えていれば、言うこと無かったのに……と
大元帥明王に一喝されそうな、不遜な感想は胸の奥に納めまして。

奈良時代末期、宝亀7年(776)、光仁天皇の勅願に
よって、平城宮大極殿の高台に造営されました。開基は
法相宗の僧、善珠。ただし、秋篠氏の氏寺であった
一寺院に対して、光仁天皇が善珠僧正を招じて勅願寺と
したとみる説も有り。承和初年(834)、常暁律師により、
「大元帥御修法(たいげんのみしほ)」を伝来。その尊法を
実際に得たのは渡海入唐の折ですが、奇しくも、常暁は
それ以前に、秋篠寺の閼伽井(あかい)の水面に「大元帥
(たいげん)明王」の姿を目撃していたそうです。井戸の
水底に映った自身の背後に、巨大なる憤怒の異相で
化現していた、と。機縁の故に、明治4年(1871)まで
例年1月7日、禁裏御香水所として献泉の儀を務めて
いたのが、秋篠寺の「香水閣」となります。東門から入ると
すぐの位置に在り、門柱には「清浄香水」「味如甘露」の文字が
刻まれています。6月6日に限り、参拝客にも振る舞われるらしく、
仏像拝観の帰りに立ち寄りました。長い柄杓で汲まれた水を
茶碗から頂きましたよ。冷えていれば、言うこと無かったのに……と
大元帥明王に一喝されそうな、不遜な感想は胸の奥に納めまして。
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