第420回 鑑賞会
7月6日(土)、大阪市・日本橋の「国立文楽劇場」に行きました。
正午過ぎに、大阪メトロ・堺筋線の扇町を出発いたので、
時間的には随分と余裕。「マイティ・ルゥ」で昼食を取りましたが
(同店のカレーが好きな以上に、BGM=黒い音がタイプです)、
劇場のエレベーター前にはまだ行列が出来ていませんでした。
最終的には、先着159人に対して、200人近い来場者が詰めかけ。
第420回「公演記録鑑賞会」の演目は文楽でなく、歌舞伎。
「東海道四谷怪談」二幕目・雑司ケ谷四ツ谷町伊右衛門浪宅の場
/伊藤喜兵衛宅の場/元の伊右衛門浪宅の場、三幕目・
砂村隠亡堀の場(昭和46年9月)で、モノクロ映像となります。
役者が何代目の誰某というところは不勉強で、よくわからず。
筋立てはそれなりに知っていましたが、意外と笑いを誘われる
所作が多いのに、戸惑いました。これも“緊張と緩和”なのか?
因みに、今回も「国立文楽劇場開場35周年記念」の一環、
つまりは“忠臣蔵”関連の演目となりまして、何故か?と申しますと――。
☆
そして約半世紀後の文政八年(一八二五)、イギリス船がしきりに浦賀に来航するころ、四世鶴屋南北が『東海道四谷怪談』を書いたのは、(初代中村)仲藏のはじめた定九郎の面影に示唆を得てのことだつたにちがひない。もしも白塗りの定九郎がなかつたならば、この怪談物の名作はあり得なかつたやうな気がする。などと言ひたくなるのは、もちろん一つにはこの戯曲が忠臣藏の世界に仕組んであるからだ。主人公の民谷伊右衛門は塩冶の家中だつたとき、御用金を盗んで結納(ゆひのう)の金に渡し、その悪事が露見したため舅(しうと)を殺した上、いつしよにその敵(かたき)を討たうと妻のお岩を偽り、そのお岩を裏切つて重婚する色悪だつた。彼が亡君の仇を討たうとしない「不義士」だつたことは言ふまでもない。すなはち『東海道四谷怪談』は定九郎と同じ「不義士」を主人公にした裏返しの忠臣藏、忠臣藏といふ美談への悪意がすこぶる露骨な芝居だつた。これは、このころになるともう、『仮名手本忠臣藏』は御霊信仰のせいでの復讐といふ意味合が見物の大半の者に伝はらず、ただ忠義の芝居として受取られてゐたことへの、批判ないし反撥とも考へられる。南北はそのへんをもどかしがつて、一方ではお岩の怨魂が大活躍する、他方では忠義といふ武士の徳目を侮辱する、あのやうな筋を立てたのかもしれない。
南北は、斧定九郎のほかにもうひとり塩冶の家中にゐる、御霊信仰を信じない男、つまり民谷伊右衛門を創造して、『四谷怪談』の主人公にした。この無信心な男、共同体への反逆者、伝統的なモラルを否認する生き方の一典型が、どういふ末路をたどつたかはこの際どうでもいいことにしよう。うんと割切つた言ひ方をすれば、彼に対する制裁のきびしさは当時の表向きのモラルが課したものにすぎない。大事なのは、この色悪の浴びた喝采が、実は十九世紀前半の江戸の幼い近代思想ないし合理主義の、率直な表現だつたといふことである。端役にすぎなかつた定九郎が派手に扱はれたあとで、今度は伊右衛門が主役になる。かつては言はず語らずのうちにみんなに通じた御霊信仰が、おどろおどろしい怪談劇の形を借りなければ人心を刺戟しなくなる。その世相の推移にわれわれは注目しなければならない。
参考文献:丸谷才一『忠臣藏とは何か 』(講談社文芸文庫)
正午過ぎに、大阪メトロ・堺筋線の扇町を出発いたので、
時間的には随分と余裕。「マイティ・ルゥ」で昼食を取りましたが
(同店のカレーが好きな以上に、BGM=黒い音がタイプです)、
劇場のエレベーター前にはまだ行列が出来ていませんでした。
最終的には、先着159人に対して、200人近い来場者が詰めかけ。
第420回「公演記録鑑賞会」の演目は文楽でなく、歌舞伎。
「東海道四谷怪談」二幕目・雑司ケ谷四ツ谷町伊右衛門浪宅の場
/伊藤喜兵衛宅の場/元の伊右衛門浪宅の場、三幕目・
砂村隠亡堀の場(昭和46年9月)で、モノクロ映像となります。
役者が何代目の誰某というところは不勉強で、よくわからず。
筋立てはそれなりに知っていましたが、意外と笑いを誘われる
所作が多いのに、戸惑いました。これも“緊張と緩和”なのか?
因みに、今回も「国立文楽劇場開場35周年記念」の一環、
つまりは“忠臣蔵”関連の演目となりまして、何故か?と申しますと――。
☆
そして約半世紀後の文政八年(一八二五)、イギリス船がしきりに浦賀に来航するころ、四世鶴屋南北が『東海道四谷怪談』を書いたのは、(初代中村)仲藏のはじめた定九郎の面影に示唆を得てのことだつたにちがひない。もしも白塗りの定九郎がなかつたならば、この怪談物の名作はあり得なかつたやうな気がする。などと言ひたくなるのは、もちろん一つにはこの戯曲が忠臣藏の世界に仕組んであるからだ。主人公の民谷伊右衛門は塩冶の家中だつたとき、御用金を盗んで結納(ゆひのう)の金に渡し、その悪事が露見したため舅(しうと)を殺した上、いつしよにその敵(かたき)を討たうと妻のお岩を偽り、そのお岩を裏切つて重婚する色悪だつた。彼が亡君の仇を討たうとしない「不義士」だつたことは言ふまでもない。すなはち『東海道四谷怪談』は定九郎と同じ「不義士」を主人公にした裏返しの忠臣藏、忠臣藏といふ美談への悪意がすこぶる露骨な芝居だつた。これは、このころになるともう、『仮名手本忠臣藏』は御霊信仰のせいでの復讐といふ意味合が見物の大半の者に伝はらず、ただ忠義の芝居として受取られてゐたことへの、批判ないし反撥とも考へられる。南北はそのへんをもどかしがつて、一方ではお岩の怨魂が大活躍する、他方では忠義といふ武士の徳目を侮辱する、あのやうな筋を立てたのかもしれない。
南北は、斧定九郎のほかにもうひとり塩冶の家中にゐる、御霊信仰を信じない男、つまり民谷伊右衛門を創造して、『四谷怪談』の主人公にした。この無信心な男、共同体への反逆者、伝統的なモラルを否認する生き方の一典型が、どういふ末路をたどつたかはこの際どうでもいいことにしよう。うんと割切つた言ひ方をすれば、彼に対する制裁のきびしさは当時の表向きのモラルが課したものにすぎない。大事なのは、この色悪の浴びた喝采が、実は十九世紀前半の江戸の幼い近代思想ないし合理主義の、率直な表現だつたといふことである。端役にすぎなかつた定九郎が派手に扱はれたあとで、今度は伊右衛門が主役になる。かつては言はず語らずのうちにみんなに通じた御霊信仰が、おどろおどろしい怪談劇の形を借りなければ人心を刺戟しなくなる。その世相の推移にわれわれは注目しなければならない。
参考文献:丸谷才一『忠臣藏とは何か 』(講談社文芸文庫)
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