善財童子の眼

『兎の眼』と決まっていた訳ですけれども、その経緯に
ついては、5月に「西大寺」を訪れた折、本堂にて
案内人が「文殊菩薩騎獅像ならびに四侍者像」の
解説に際して、灰谷の作品に触れたことにあります。
どうしても取り上げなければ、気が済まないのでしょう。
熱意に打たれ、この機会に再読しておこうか(実際は、
学生時代に読んだ気になっていただけで、読めて
いなかったようではありました)と思い立ち、選ばれた
次第です。西大寺の文殊菩薩の脇侍は、優填(うてん)
王、最勝老人、仏陀波利(はり)三蔵、善財童子が
務めています。以下に、善財童子の登場シーンを抜粋。
☆
小谷先生は西大寺が好きだ。さいしょにつれてきてもらったお寺が、西大寺ということもあったのだろうが、その後いろいろお寺を見て歩いてやっぱり西大寺がいちばん気に入っていた。
電話ボックスのところを曲がると、なつかしい土べいが見えた。
西大寺は土べいがいいと小谷先生は思っている。白壁の落ちているところがある。ちょっと柿の色ににている。雨にうたれてぽこぽことしたおうとつがついている。それは光った壁よりもずっとやさしい。古い山門をくぐって中にはいると、白い砂利がしかれてある。ふみしめて歩くと、しゃがれた声で話しかけられているような気がするのであった。
西大寺は竹がいいと小谷先生は思う。お寺の中に竹におおわれた細い道がある。そこにはまだ白壁が残っていて竹の青によくにあうのだった。その場所で深呼吸をすると爪の先まで青くそまった。
本堂の中は夏でもひんやりしている。ここは素足にかぎる。小谷先生はソックスをぬいで、その冷気にふれた。そして、まっすぐに堂の左手の方に歩いていった。そこに善財童子という彫像がある。
「こんにちは」――と小谷先生は呼びかけた。
「ちゃんとまっていてくれましたね」
小谷先生はほほえんだ。
あいかわらず善財童子は美しい眼をしていた。ひとの眼というより、兎の眼だった。それはいのりをこめたように、ものを思うかのように、静かな光をたたえてやさしかった。
小谷先生は小さなため息をついた。
長い時間、善財童子を見つめていた小谷先生は、ほっとつぶやいた。
「きてよかったわ」
本堂の廊下は涼しくて広い。ときどき、ここでぼんやり考えごとをしている人がある。小谷先生もそこにすわりこんだ。きょうはだれもいない。五重塔あとや正門が緑にかこまれて涼しそうだ。
「どうしてあんなに美しいのでしょう」
小谷先生の眼のおくに、まだ善財童子の姿がやきついてはなれない。
「美しすぎるわ、どうしてあんなに……」
どうしてだろうと小谷先生は思った。
☆
ふたりで西大寺にいったことがある。
夏の雨で西大寺はあでやかだった。
「雨のお寺って、わたしたち運がいいわ。ほら緑がいまにもとけて落ちそうよ」
小谷先生ははしゃいでいった。
土べいについて話をしたり、西大寺の竹の美しさについて議論をした。本堂では、ふたりの興味がちがった。小谷先生はあいかわらず善財童子のファンだ。
「どうですか、わたしちょっとは美しくなりましたか」
すこしばかり自信のある小谷先生は、善財童子にそんなことを話しかけた。
夫は本尊の釈迦像が好きだ。衣の線があやしくて美しいという。
「そういえば、このお釈迦さん、なかなか美男子ねえ」
小谷先生は寺の住職がきいたら顔をしかめそうなことをいった。
参考文献:灰谷健次郎『兎の眼』(角川文庫)
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