青木淳悟
建築家の青木淳(1956~)の選んだ 『建築文学選』は、
ぼくのように文学好き、かつ(近代)建築好きにとって
何とも堪らない、狂おしい好著たり得る訳なのです。
どれもが建築文学の傑作と言えるかどうかは、別にして、
明確な一つの指標が全編を貫いていると感じ取れることが
非常に心地良く、最も“文学”らしさに打ち震えたのが
青木自身の解説だったことも、何かしらの天啓のように覚えます。
10編中、最も唸らされたのは、青木淳悟の「ふるさと以外の
ことは知らない」でして、論理的に明晰な散文を目指しているようで、
どこかとぼけたような視点のずれて行き方が、ユーモラスですらあり。
鍵や道路、保険について語りながら、現代人の「家」を描写する力業。
☆
さらにいえば鍵の管理とはどこか家庭の掌握とでもいうべきものに通じていはしないか。もちろんそれを住居の鍵だと限定したうえで——というのも、一般に見られる鍵の保管方法としては複数の鍵がまとめておかれる傾向にあるが、とくに性格の似て非なる車のキーをそこから省いておきたいのである。車のキーでドアにロックはかかるとしても、そもそも車で家を離れられてしまってはこまる。たとえばまだまったくの親がかりである子どもが親の車を乗りまわして深夜まで遊び興じている状態などを想像すると、家庭とはつまり場所なのだ、という認識が深まる。ましてその車にしてからが、近所に車両保管場所がなければ車庫証明は下りず取得は許可されないというのだから、車を持つにしろ持たないにしろ家庭生活を送るには決まった住所が、つまりは家が必要になる。その出入り口には必ずや施錠可能な扉があり、住居の鍵はそこに住む人間の生命や財産、プライバシーを守るものだ。
☆
家にある保管書類を参照しても実態的な家族の生活ぶりまではうかがい知れない。生命保険の証書にようやく長男の名前を発見したところだ。本人加入の生命保険と親の生命保険の受取人としての記名である。また意外なところでは家の車の任意保険が規定する保険の適用範囲のうちに長男の存在が認められる。約款と照らしあわせつつ契約内容を見てみると、父親を被保険者とするその保険には「子ども特約」だの「ファミリーバイク特約」だのが付帯されていて、そこには同居の次男ばかりか長男も「別居の未婚の子」として入っている。たとえ子どもが別居していようが三十間近であろうが既婚でなければ親世帯の一員のように扱われるということだ。ただしそれはあくまでも保険上のことであって、ファミリーカーとしての自家用車が家族をまとめ上げている、というわけではないだろう。ファミリーバイクといったところでこの家にバイクはない。つまりそれは長男のバイクのための保険だった。
☆
それでもT字路の角が隅切りされている、つまり一番手前側の公道に面する角敷地に建つ二軒の塀の角が斜め四十五度になっているのは、車両の進入を想定しているなによりの証拠だ。ある法規によれば「敷地の隅を頂点とする長さ二メートルの底辺を有する二等辺三角形の部分を道路上に整備しなければならない」というその「二等辺三角形」の空きスペースには、内輪差を生みながら曲がってくるトラックの姿が重なって見える。
☆
母親がいうには、保険証書に「二一歳未満不担保」とある通り、自分より年下の人間に臨時運転も代理運転もさせてはならない。車の使用目的が「日常・レジャー等」になっているから通勤通学には使えない。年間走行距離はなるべく一万二千キロ以下に——というのも、それは年間保険料の額に直接反映されるからだ。加入して何十年になる保険はいわゆる無傷な状態で、無事故等級が最上位の二〇、保険料率はいまやマイナス六〇パーセントである。等級が下がる、すなわち翌年の保険料がアップするような事故はいままで一度も起こしていない。これからもその等級を下げないためには、年一回の事故までという条件のもとで保険自体を保障する「等級プロテクト特約」をつけるべきか、あるいはやはり軽い物損事故程度なら自分で処理してしまうべきか。へこみ、こすり傷などはこれまでもすべて自己負担で直してきた。
参考文献:青木淳[選]『建築文学傑作選』(講談社文芸文庫)
ぼくのように文学好き、かつ(近代)建築好きにとって
何とも堪らない、狂おしい好著たり得る訳なのです。
どれもが建築文学の傑作と言えるかどうかは、別にして、
明確な一つの指標が全編を貫いていると感じ取れることが
非常に心地良く、最も“文学”らしさに打ち震えたのが
青木自身の解説だったことも、何かしらの天啓のように覚えます。
10編中、最も唸らされたのは、青木淳悟の「ふるさと以外の
ことは知らない」でして、論理的に明晰な散文を目指しているようで、
どこかとぼけたような視点のずれて行き方が、ユーモラスですらあり。
鍵や道路、保険について語りながら、現代人の「家」を描写する力業。
☆
さらにいえば鍵の管理とはどこか家庭の掌握とでもいうべきものに通じていはしないか。もちろんそれを住居の鍵だと限定したうえで——というのも、一般に見られる鍵の保管方法としては複数の鍵がまとめておかれる傾向にあるが、とくに性格の似て非なる車のキーをそこから省いておきたいのである。車のキーでドアにロックはかかるとしても、そもそも車で家を離れられてしまってはこまる。たとえばまだまったくの親がかりである子どもが親の車を乗りまわして深夜まで遊び興じている状態などを想像すると、家庭とはつまり場所なのだ、という認識が深まる。ましてその車にしてからが、近所に車両保管場所がなければ車庫証明は下りず取得は許可されないというのだから、車を持つにしろ持たないにしろ家庭生活を送るには決まった住所が、つまりは家が必要になる。その出入り口には必ずや施錠可能な扉があり、住居の鍵はそこに住む人間の生命や財産、プライバシーを守るものだ。
☆
家にある保管書類を参照しても実態的な家族の生活ぶりまではうかがい知れない。生命保険の証書にようやく長男の名前を発見したところだ。本人加入の生命保険と親の生命保険の受取人としての記名である。また意外なところでは家の車の任意保険が規定する保険の適用範囲のうちに長男の存在が認められる。約款と照らしあわせつつ契約内容を見てみると、父親を被保険者とするその保険には「子ども特約」だの「ファミリーバイク特約」だのが付帯されていて、そこには同居の次男ばかりか長男も「別居の未婚の子」として入っている。たとえ子どもが別居していようが三十間近であろうが既婚でなければ親世帯の一員のように扱われるということだ。ただしそれはあくまでも保険上のことであって、ファミリーカーとしての自家用車が家族をまとめ上げている、というわけではないだろう。ファミリーバイクといったところでこの家にバイクはない。つまりそれは長男のバイクのための保険だった。
☆
それでもT字路の角が隅切りされている、つまり一番手前側の公道に面する角敷地に建つ二軒の塀の角が斜め四十五度になっているのは、車両の進入を想定しているなによりの証拠だ。ある法規によれば「敷地の隅を頂点とする長さ二メートルの底辺を有する二等辺三角形の部分を道路上に整備しなければならない」というその「二等辺三角形」の空きスペースには、内輪差を生みながら曲がってくるトラックの姿が重なって見える。
☆
母親がいうには、保険証書に「二一歳未満不担保」とある通り、自分より年下の人間に臨時運転も代理運転もさせてはならない。車の使用目的が「日常・レジャー等」になっているから通勤通学には使えない。年間走行距離はなるべく一万二千キロ以下に——というのも、それは年間保険料の額に直接反映されるからだ。加入して何十年になる保険はいわゆる無傷な状態で、無事故等級が最上位の二〇、保険料率はいまやマイナス六〇パーセントである。等級が下がる、すなわち翌年の保険料がアップするような事故はいままで一度も起こしていない。これからもその等級を下げないためには、年一回の事故までという条件のもとで保険自体を保障する「等級プロテクト特約」をつけるべきか、あるいはやはり軽い物損事故程度なら自分で処理してしまうべきか。へこみ、こすり傷などはこれまでもすべて自己負担で直してきた。
参考文献:青木淳[選]『建築文学傑作選』(講談社文芸文庫)
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