蜆川跡
元禄元年(1688)、大坂は「蜆川」の南側に「堂島新地」が出来、
宝永5年(1708)、蜆川の北側に「曽根崎新地」が出来ました。
蜆川は別名「曽根崎川」とも呼ばれ、堂島川から「水晶橋」と
「大江橋」の間辺りで分岐して、「堂島大橋」と「船津橋」の間
辺りで、堂島川に再合流していたようです。現在の新地本通の
北側を流れていた蜆川ですが、明治42年(1909)の“北の大火”
(=天満焼け)に見舞われると、瓦礫の廃棄場所とされ、やがては
埋め立てられてしまいました。御堂筋に面した「滋賀銀行」ビルの南東角に
埋め込まれるような格好で、「蜆橋」の親柱めいた史跡碑が建っています。
かつての蜆川の幻を上流(東側)に辿っていけば、御堂筋の向こうに
「堂島ビルヂング」と大阪市交通局「曽根崎変電所」が立ち上がり、
近松門左衛門が書き留めた蜆川の周囲のざわめきは、アスファルトの下。

宝永5年(1708)、蜆川の北側に「曽根崎新地」が出来ました。
蜆川は別名「曽根崎川」とも呼ばれ、堂島川から「水晶橋」と
「大江橋」の間辺りで分岐して、「堂島大橋」と「船津橋」の間
辺りで、堂島川に再合流していたようです。現在の新地本通の
北側を流れていた蜆川ですが、明治42年(1909)の“北の大火”
(=天満焼け)に見舞われると、瓦礫の廃棄場所とされ、やがては
埋め立てられてしまいました。御堂筋に面した「滋賀銀行」ビルの南東角に
埋め込まれるような格好で、「蜆橋」の親柱めいた史跡碑が建っています。
かつての蜆川の幻を上流(東側)に辿っていけば、御堂筋の向こうに
「堂島ビルヂング」と大阪市交通局「曽根崎変電所」が立ち上がり、
近松門左衛門が書き留めた蜆川の周囲のざわめきは、アスファルトの下。



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