蓼喰う文楽(4)
要が義父に誘われ、淡路島の洲本まで、人形芝居の
元祖である淡路浄瑠璃を見物に行く場面があります。
☆
大阪下りと云う触れ込みで、番附に大きく名を出している呂太夫の「吃又(どもまた)」が始まったのは十時過ぎだったが、それから間もなく見物席でえらい騒ぎが持ち上った。
☆
本場(=大阪)の太夫を客分として、特別に出演してもらうことを
“追抱(おいだき)”と言うそうですが、淡路源之丞大芝居に追抱として
呼ばれていたのが、二世・豊竹呂太夫(1857~1930)でした。
一瞬、現・呂太夫(=六代)の祖父、豊竹若太夫(1888~1967)か!
と思いましたが、『蓼喰う虫』の連載が1928~1929年でして、
若太夫(=十代)が呂太夫(=三代)を名乗っていた時期は、
1932~1950年の間となりますから、時代錯誤もよいところ。
「吃又」とは、例の「傾城反魂香」土佐将監閑居の段の通称です。
参考文献:谷崎潤一郎『蓼喰う虫』(新潮文庫)
元祖である淡路浄瑠璃を見物に行く場面があります。
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大阪下りと云う触れ込みで、番附に大きく名を出している呂太夫の「吃又(どもまた)」が始まったのは十時過ぎだったが、それから間もなく見物席でえらい騒ぎが持ち上った。
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本場(=大阪)の太夫を客分として、特別に出演してもらうことを
“追抱(おいだき)”と言うそうですが、淡路源之丞大芝居に追抱として
呼ばれていたのが、二世・豊竹呂太夫(1857~1930)でした。
一瞬、現・呂太夫(=六代)の祖父、豊竹若太夫(1888~1967)か!
と思いましたが、『蓼喰う虫』の連載が1928~1929年でして、
若太夫(=十代)が呂太夫(=三代)を名乗っていた時期は、
1932~1950年の間となりますから、時代錯誤もよいところ。
「吃又」とは、例の「傾城反魂香」土佐将監閑居の段の通称です。
参考文献:谷崎潤一郎『蓼喰う虫』(新潮文庫)
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