鹿を追う(2)
著者の宮元健次が、史学畑の人ではなく、建築学科教授
である点は注意を要しますが、話を続けてみましょう。
☆
その(鎌足の)先祖は「天児屋根命(あまのこやねのみこと)」であるといわれ、天照大神が天岩屋戸(あまのいわやど)にこもった際、岩戸の前で祝詞を奏した神といわれる。崇神天皇の時代に大和から中臣神聞勝命(なかとみのかむききかつのみこと)が鹿島に神職として移ったことが、鹿島神宮との関係の発端であろう。『古事記』では「仲国造(なかのくにのみやっこ)」が常陸に国造としてつかわされたとしているが、同一人物とみてよいだろう。
つまり、現在、鹿島神宮の祭神となっているもともとの土地の神・武甕槌(たけみかづち)の一族と婚姻関係となり、神主、大宮司と発展していったものとみられる。そして、『常陸国風土記』によれば、中臣氏の祖先天児屋根命を祀る坂戸神社と、産土神・武甕槌神を祀る天大神社(あめのおおじんじゃ)、そして経津主神を祀る沼尾神社を合わせて香島(鹿島)神社を創立したという。鹿島神宮の祭礼の一つ「御船(おふな)祭」では、本社、坂戸、沼尾の三社の船に神輿をのせるが、その名残だろう。
『神日本』(第三巻六号)によれば、
「鹿島の社務は代々中臣氏の人にてつとめ、鎌足公までは、当初社務にてありしが都に上り政務を預り、遂に都に止りたまう」
と記されている。
すなわち、代々鹿島神宮の神官をつとめた中臣氏から、はじめて鎌足が大和朝廷につかわされたのである。そして大化の改新を成功させ、天智天皇を擁立すると藤原姓を天皇より賜わり、藤原鎌足と名乗ったのであった。
参考文献:宮元健次『神社の系譜 なぜそこにあるのか』(光文社新書)
である点は注意を要しますが、話を続けてみましょう。
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その(鎌足の)先祖は「天児屋根命(あまのこやねのみこと)」であるといわれ、天照大神が天岩屋戸(あまのいわやど)にこもった際、岩戸の前で祝詞を奏した神といわれる。崇神天皇の時代に大和から中臣神聞勝命(なかとみのかむききかつのみこと)が鹿島に神職として移ったことが、鹿島神宮との関係の発端であろう。『古事記』では「仲国造(なかのくにのみやっこ)」が常陸に国造としてつかわされたとしているが、同一人物とみてよいだろう。
つまり、現在、鹿島神宮の祭神となっているもともとの土地の神・武甕槌(たけみかづち)の一族と婚姻関係となり、神主、大宮司と発展していったものとみられる。そして、『常陸国風土記』によれば、中臣氏の祖先天児屋根命を祀る坂戸神社と、産土神・武甕槌神を祀る天大神社(あめのおおじんじゃ)、そして経津主神を祀る沼尾神社を合わせて香島(鹿島)神社を創立したという。鹿島神宮の祭礼の一つ「御船(おふな)祭」では、本社、坂戸、沼尾の三社の船に神輿をのせるが、その名残だろう。
『神日本』(第三巻六号)によれば、
「鹿島の社務は代々中臣氏の人にてつとめ、鎌足公までは、当初社務にてありしが都に上り政務を預り、遂に都に止りたまう」
と記されている。
すなわち、代々鹿島神宮の神官をつとめた中臣氏から、はじめて鎌足が大和朝廷につかわされたのである。そして大化の改新を成功させ、天智天皇を擁立すると藤原姓を天皇より賜わり、藤原鎌足と名乗ったのであった。
参考文献:宮元健次『神社の系譜 なぜそこにあるのか』(光文社新書)
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