大正橋(承前)
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「大正橋」を採用するのは如何な
ものか。アナクロニズムは個人的に
偏愛するところではあれ、現代人に
どこまで訴求できるものやら、非常に
危ぶまれてしまいます。長堀鶴見
緑地線・大正駅以外では、谷町線・
中崎町駅の「大阪能楽会館」や、
御堂筋線・淀屋橋の3代目・大阪市
庁舎等が鮮明ですけれど、既に存在
しない建造物ばかり。「大正橋」など
はただ、当代が頑張ってくれている
訳ですし。桂小米朝(現・米團治)が
そのまんま、米朝を襲名してしまった
場合を空想してみたりします……。
☆
米團治が故・米朝師匠の逸話を
ネタにするように、現「大正橋」も
先代を顕彰しています。大正4年(1915)に架設された旧・大正橋は、支間長90.6m、
幅員19.0mと、当時の日本では最長のアーチ橋だったそうです。“大正区”の名称も
橋名に因んでのもの。旧橋は昭和46年(1971)3月に撤去。同49年(1974)3月に
現橋が「わが国初の3径間連続のプレストレスしない合成箱桁橋」として誕生した
と顕彰碑にはあるのですが、“プレストレスしない”が説明不十分。予め応力を加えた
コンクリート材を使用していない、PC橋ではないと言っているだけでしょうか? 「わが
国初」がどこに掛かっているかも曖昧でして、「3径間連続の合成箱桁橋」だけだと、
他にも在るから、「プレストレスしない」と限定した――と、今は解しておきましょう。
橋の袂には“伊予の青石(紫雲石)”が飾られ、東詰には「大地震両川口津波記」
の碑が建っていました。下流側の高欄にデザインされているという交響曲第9番
「歓喜の歌」には全く気付かず。縁石のメトロノーム、舗石の鍵盤までもスルーする
ぼくの目は節穴です。現「大正橋」の設計者は日種俊哉。いつか、再確認しますよ。
参考記事:大阪市 ― 大正橋
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