「なっぱ」再訪

カレー「なっぱ」は通常11時30分
オープンですが、日曜・祝日は
10時に開店すると知り、正午に
出勤する前、いそいそと駆け付けて
みたのです。しかし、トラブルにつき、
11時オープンとの知らせが、SNSで
回っていました。ぼくは10時半頃に
到着したのですが、既に並んでいた
方々が十人以上。仕方ないよねえ。スパイスカレーの定義は、様々あるのでしょう
けれど、ぼくの重視しているのは、何が起こるかわからないという“ライヴ感”です。
どんなアクシデントがあったのかは知りませんが、原付バイクに乗って、颯爽と登場
して(挨拶も爽やか)、厨房に駆け込む店主の中村和也氏を見て、これはこれで
楽しいな、と感じました。前夜(9月20日)も独りで「本とん平」のカウンターに座って
いたっけ?と思い出しながら、流れているBGMはヒップホップ。歌声は、Anderson
.Paak のようで、以前は好きでもなかったのに、悪くないな。そう感じながら、4辛、
梅干し2個を追加トッピングした“鶏ざんまい”を美味しく頂くのでした。30分以上、
待たされて、少々焦りはしましたが、定時の10分前には事業所に入れていますよ。
砕けた歯
前夜、スーパーで購入した
鶏じゃがの肉を噛むと、硬い異物が舌に触れた。
骨の欠けらかと思い、検分してみれば、
自分自身の奥の方にある歯の一部だった。
何か月か前に、奥歯の一部が少しばかり
欠けていて、違和感があるも、放置していたところ、
内部で腐食が進み、圧力を受けて、砕けたらしい。
朝から深夜まで働き詰めで、帰宅すれば、歯が折れる。
心身ともにがたが来ている。何かのサイン。
鶏じゃがの肉を噛むと、硬い異物が舌に触れた。
骨の欠けらかと思い、検分してみれば、
自分自身の奥の方にある歯の一部だった。
何か月か前に、奥歯の一部が少しばかり
欠けていて、違和感があるも、放置していたところ、
内部で腐食が進み、圧力を受けて、砕けたらしい。
朝から深夜まで働き詰めで、帰宅すれば、歯が折れる。
心身ともにがたが来ている。何かのサイン。
tag : つぶやき
辛口飯屋「森元」
9月19日(土)のシフトは早番でした。
早朝に事業所を開け、昼食時間は正午から。
正午のランチ・タイムはビル内の休憩室も混むし、
周辺の飲食店も混雑していて、今ひとつなの。
曽根崎通を渡って、西天満へ下ってみるも、
スープカレー「なっぱ」は今日も凄い行列。
「ヤドカリー」西天満店は数日前に利用したばかり
なので、スルーして、辛口飯屋「森元(もりげん)」
(大阪市北区西天満4-5-3、渋観ビル2F)に上がりました。
基本のビーフとチキン、日替わり2種という布陣。
ぼくはレギュラーの2種あいがけに、ピクルス増量で。
常連さんの動きを追っていると、ルウのお代わりが
無料のようでした。看板に「私のカレーはとても辛いです。
甘くは出来ません。なので、苦手な方にはごめんなさい」
と言い切る潔さに、好感を持ちます。もっとも、常識的な
範囲内の辛さでして、「辛口料理ハチ」のような異常事態に
陥ることはありませんから、お仕事を後に控えていても安心。
マサラ感の強いビーフ・カレーは好みでして、通ってもよいなぁ。
早朝に事業所を開け、昼食時間は正午から。
正午のランチ・タイムはビル内の休憩室も混むし、
周辺の飲食店も混雑していて、今ひとつなの。
曽根崎通を渡って、西天満へ下ってみるも、
スープカレー「なっぱ」は今日も凄い行列。
「ヤドカリー」西天満店は数日前に利用したばかり
なので、スルーして、辛口飯屋「森元(もりげん)」
(大阪市北区西天満4-5-3、渋観ビル2F)に上がりました。
基本のビーフとチキン、日替わり2種という布陣。
ぼくはレギュラーの2種あいがけに、ピクルス増量で。
常連さんの動きを追っていると、ルウのお代わりが
無料のようでした。看板に「私のカレーはとても辛いです。
甘くは出来ません。なので、苦手な方にはごめんなさい」
と言い切る潔さに、好感を持ちます。もっとも、常識的な
範囲内の辛さでして、「辛口料理ハチ」のような異常事態に
陥ることはありませんから、お仕事を後に控えていても安心。
マサラ感の強いビーフ・カレーは好みでして、通ってもよいなぁ。
tag : カレー
「大丸」心斎橋店

のが2019年9月20日。ほとぼりが冷めた頃かな、と思い
出し、長堀通を西長堀から歩いたついでに、リニューアル
工事のお手並み拝見、と見物を図ったのでした。何と
言っても、William Merrell Vories(1880~1964)
の百貨店建築の名作ですから。本館の最初の竣工は
大正7年(1918)ですが、大正9年(1920)に焼失。
その後に再建が行われ、第1・2期工事(1922~1925)
で心斎橋筋側が完成、第3・4期工事(1932~1933)で
御堂筋側を増築し、ネオゴシック様式の旧本館が
完成したようです。86年ぶりの建て替え工事では、
当時のアールデコの装飾モチーフを含め、内部装飾や
外観を可能な限り、復元することに力を尽くした模様。
フロア数が増えた分の継ぎ接ぎ感は、頂けないなあ
……と不満に思っていましたが、よくよく見ると、1階でも
目にする八芒星モチーフが引用されて
いますね。右画像は、御堂筋側の出

入り口の上部に再設置されたレリーフ。
イソップ寓話「兎と亀」を潜って入ると、
繧繝彩色を施したような天井が目に
映えます。エレベーター・ホールや
階段の再現具合は確かめられず、
心斎橋筋側の孔雀のレリーフは撮影
できませんでした。建築物は良いの
だけれど、デパートという消費空間が
鼻持ちならないなあ……ぶつぶつ呟きながら、
「船場センタービル」まで歩くと、9号館の
「レイルーム」にて冷やしぜんざいを頂きました。
長堀通を歩く
前々日(9月15日)の昼食時、相方と
「SAPPORO SOUP CURRY JACK」
を再訪しています。天気も良いので、
西長堀から地下鉄に乗るのをよして、
長堀通を東へ向かって歩いてみました。
白髪橋交差点の東側、長堀通の緑地
帯に建っていたのが、「大阪木材市売
市場発祥の地」と記された石柱です
(上画像)。適宜、句読点を入れて、
漢字に直した案内文は、下記のとおり。
☆
元和末年(1622)の頃、土佐藩の申請によって材木市が
立売堀川で始まり、やがて土佐藩が蔵屋敷を白髪町に構えると
西長堀川でも材木市が許可されることになった。土佐ばかりでなく、
日向、紀州、阿波、尾張など全国各地の材木が集まり、次第に
川の両岸には全国各地の材木を扱う店が軒を並べるようになり、
西長堀橋南詰から、富田屋橋、問屋橋、白髪橋にかけての浜側は、
江戸時代から昭和に至るまで、一年中、材木市が開かれていた。
戦後、長堀川は水質の汚染が進み、舟運の利用も減少したため、
昭和36年(1961)から同37年にかけて東横堀川から四ツ橋間が
埋め立てられ、また昭和42年(1967)から同46年(1971)にかけて
四ツ橋から木津川間の西長堀川も埋め立てられた。
今でも北堀江の東側には、材木商の看板があちこちに残っている。
☆
長堀川、(四ツ橋以西の)西長堀川が埋め立てられて
いき、四ツ橋などの橋が撤去され、長堀通が造られた
訳なのです。現在、緑地帯は「西横堀公園」と呼ばれて
いるようですが、遊歩道などもさほど整備されている
観は無かったですねえ。白髪橋の次の交差点の辺りで
「問屋橋(といやばし)」の親柱(左画像)を発見しました。
感激しています。一帯に、ポルシェなどの高級外国車
販売店などが幅を利かせる中、ほっとさせてくれるでは
ないですか! 「大阪問屋橋郵便局」という名称にも、
橋が残されています。「白髪橋」は交差点名だけとして、
「富田屋橋」、「西大橋」、「宇和島橋」、「西長堀橋」
は今回、親柱も、説明板も確認できておりません。
「宇和島橋」は、愛媛県宇和島市に移築されたという
情報も見かけており、調査の必要を感じているところ。
宿題がいっぱいなのです(だから、まだ生きている)。

「SAPPORO SOUP CURRY JACK」
を再訪しています。天気も良いので、
西長堀から地下鉄に乗るのをよして、
長堀通を東へ向かって歩いてみました。
白髪橋交差点の東側、長堀通の緑地
帯に建っていたのが、「大阪木材市売
市場発祥の地」と記された石柱です
(上画像)。適宜、句読点を入れて、
漢字に直した案内文は、下記のとおり。
☆
元和末年(1622)の頃、土佐藩の申請によって材木市が
立売堀川で始まり、やがて土佐藩が蔵屋敷を白髪町に構えると
西長堀川でも材木市が許可されることになった。土佐ばかりでなく、
日向、紀州、阿波、尾張など全国各地の材木が集まり、次第に
川の両岸には全国各地の材木を扱う店が軒を並べるようになり、
西長堀橋南詰から、富田屋橋、問屋橋、白髪橋にかけての浜側は、
江戸時代から昭和に至るまで、一年中、材木市が開かれていた。
戦後、長堀川は水質の汚染が進み、舟運の利用も減少したため、
昭和36年(1961)から同37年にかけて東横堀川から四ツ橋間が
埋め立てられ、また昭和42年(1967)から同46年(1971)にかけて
四ツ橋から木津川間の西長堀川も埋め立てられた。
今でも北堀江の東側には、材木商の看板があちこちに残っている。
☆

いき、四ツ橋などの橋が撤去され、長堀通が造られた
訳なのです。現在、緑地帯は「西横堀公園」と呼ばれて
いるようですが、遊歩道などもさほど整備されている
観は無かったですねえ。白髪橋の次の交差点の辺りで
「問屋橋(といやばし)」の親柱(左画像)を発見しました。
感激しています。一帯に、ポルシェなどの高級外国車
販売店などが幅を利かせる中、ほっとさせてくれるでは
ないですか! 「大阪問屋橋郵便局」という名称にも、
橋が残されています。「白髪橋」は交差点名だけとして、
「富田屋橋」、「西大橋」、「宇和島橋」、「西長堀橋」
は今回、親柱も、説明板も確認できておりません。
「宇和島橋」は、愛媛県宇和島市に移築されたという
情報も見かけており、調査の必要を感じているところ。
宿題がいっぱいなのです(だから、まだ生きている)。
昼カリーと夜おでん

行列が半端ではないスープカレー「なっぱ」の前を
通り過ぎますと、「ヤドカリー」西天満店(大阪市
北区西天満4-10-18、石之ビル1F)のカウンターに
座りました。日替わりのスペシャルをオーダー。
副菜の盛り加減には大満足ですが、カレー自体の
スパイス感がちょっと物足りないかも。本気で食する
には、午後の業務も控えているので、若干セーヴ。
☆
残業を短めに切り上げると、「男流」梅田店で散髪。
大阪駅前第1ビル内の中古レコード店「DISC J.J.」に
赴き、Allen Toussaint(1938~2015)関連で
『HAPPY TIMES IN NEW ORLEANS 1958-
1960』と『ROLLING WITH THE PUNCHES:
THE ALLEN TOUSSAINT SONGBOOK』を入手
しましたよ。19時半過ぎに相方と合流。同じ駅前第1ビルのB1FからB2Fに下り、
「丸喜酒店」を利用しました。白いおでん等を摘まみながら、「金陵」の呑み比べ
――「大瀬戸の花嫁」、「濃藍」、「月白」、「濃醇純米」、「山廃仕込み」、「真紅」
を頂いた後、「酒井酒造」(山口県)の「五橋」も嗜み……お仕事の話は不要不急。
納豆BAR 小金庵
夕方、何気なく「毎日放送(MBS)」の報道番組
「News ミント!」を見るともなく眺めていると、
「5年で売上3倍!! 納豆3つの秘密」と題された
コーナーが目を引きました。例によって、関西では
納豆の消費量が(まだまだ)少ない――といった
常套句から始まりまして、そんな逆境下でも、売り上げを
伸ばしている企業として、「小金屋食品」が取り上げられ、
吉田恵美子社長がインタビューに答えられていました。
肝心の3つの秘密ですが、まず、低温で、ゆっくりと
時間を掛けた発酵~熟成により、臭いが抑えられていること。
添付のたれにだしを利かせ、関西人の嗜好に合わせていること。
量も多め。そして、ちょっと贅沢なカクテル納豆。3種類の大豆
(大粒/小粒/ひきわり)、10種類のトッピング(玉ねぎ/とろろ昆布
/赤しそ/青唐辛子味噌/初摘み海苔/うずら卵/鰯削り節/
キムチ/ラー油奈良漬け/本わさび)から選んで、組み合わせる
という商品でして、直営の納豆専門店「納豆BAR 小金庵」
(大阪市西区土佐堀2丁目3-12-102)が紹介されていましたよ。
「常安橋」を南に下った土佐堀1丁目交差点を西へ少し歩いた辺り。
バーと名付けたからには、納豆をアテに呑めたら、さらに良いのになあ。
「News ミント!」を見るともなく眺めていると、
「5年で売上3倍!! 納豆3つの秘密」と題された
コーナーが目を引きました。例によって、関西では
納豆の消費量が(まだまだ)少ない――といった
常套句から始まりまして、そんな逆境下でも、売り上げを
伸ばしている企業として、「小金屋食品」が取り上げられ、
吉田恵美子社長がインタビューに答えられていました。
肝心の3つの秘密ですが、まず、低温で、ゆっくりと
時間を掛けた発酵~熟成により、臭いが抑えられていること。
添付のたれにだしを利かせ、関西人の嗜好に合わせていること。
量も多め。そして、ちょっと贅沢なカクテル納豆。3種類の大豆
(大粒/小粒/ひきわり)、10種類のトッピング(玉ねぎ/とろろ昆布
/赤しそ/青唐辛子味噌/初摘み海苔/うずら卵/鰯削り節/
キムチ/ラー油奈良漬け/本わさび)から選んで、組み合わせる
という商品でして、直営の納豆専門店「納豆BAR 小金庵」
(大阪市西区土佐堀2丁目3-12-102)が紹介されていましたよ。
「常安橋」を南に下った土佐堀1丁目交差点を西へ少し歩いた辺り。
バーと名付けたからには、納豆をアテに呑めたら、さらに良いのになあ。
tag : 納豆
四ツ橋跡

代表格かもしれませんね、「四ツ橋」。
路線名や駅名など、地名では見聞き
するとはいえ、有名無実と化した橋
……ですけれども、「旧名所 四ツ橋
跡」という顕彰碑が建てられ、周辺が
整備されています。現在の四つ橋筋
と長堀通は、かつての西横堀川と
長堀川を埋め立てられて出来た物
でありまして、それ以前は、2本の堀川が交差する地点に、4本の橋が架かっており、
総称が「四ツ橋」です。長堀川の北側に架かるのが「上繋橋」、南側が「下繋橋」。
長堀川の東側に架かるのが「炭屋橋」、西側が「吉野屋橋」。昭和39年(1964)に
上繋橋と下繋橋が撤去され、同45年(1970)に炭屋橋と吉野屋橋も撤去されました。
なお、「旧名所 四ツ橋跡」自体は、西大橋交差点(つまりは、なにわ筋)から東に
300mほど歩いた四ツ橋交差点に在りますが、四つ橋筋(Osaka Metro 四つ橋線)
と西横堀川(阪神高速1号環状線)が若干東西にずれている分だけ、離れてしまって
いることをお忘れなく。駅での乗り換え等を考慮すると、体感的には心斎橋や西大橋
と そう変わらず……立地ポイントはともかく、顕彰碑の後ろに見える照明柱を中心に、
四ツ橋の構成を欄干等で再現(橋長は約10分の1、幅員は約6分の1)してあり、
照明柱の台座には橋名板も嵌め込んでありました。スケールは縮小されながらも、
くるりと回れば、「四つ橋をよつ わたりけり」(小西来山)の気分を味わえますよ。
「砂場」の跡
なにわ筋に面した「新町南公園」(大阪市西区南新町
3丁目11-4)の南東角の辺りに「ここに砂場ありき」
と書かれた石碑が建っています(画像は8月25日撮影)。
知らない人には何のことやら?となりますが、要は、
“蕎麦”発祥の地であります。裏面に説明文有り。
☆
本邦麺類店発祥の地
大阪築城史蹟・新町砂場
天正十一年(一五八三)九月、豊太閤秀吉公
大阪築城を開始、浪速の町に数多、膨大を極めし
資材蓄積場設けらる。ここ新町には砂の類置かれ
通称を「砂場」と呼びて、人夫、工事関係者日夜
雲集す。人集まる所食を要す。早くも翌天正十二年、
古文書「二千年袖鑒」に、麺類店「いずみや・
津の国屋」など開業とある。即ちこの地、大阪築城
史跡にして、また、本邦麺類店発祥の地なり。
坂田孝造 識

3丁目11-4)の南東角の辺りに「ここに砂場ありき」
と書かれた石碑が建っています(画像は8月25日撮影)。
知らない人には何のことやら?となりますが、要は、
“蕎麦”発祥の地であります。裏面に説明文有り。
☆
本邦麺類店発祥の地
大阪築城史蹟・新町砂場
天正十一年(一五八三)九月、豊太閤秀吉公
大阪築城を開始、浪速の町に数多、膨大を極めし
資材蓄積場設けらる。ここ新町には砂の類置かれ
通称を「砂場」と呼びて、人夫、工事関係者日夜
雲集す。人集まる所食を要す。早くも翌天正十二年、
古文書「二千年袖鑒」に、麺類店「いずみや・
津の国屋」など開業とある。即ちこの地、大阪築城
史跡にして、また、本邦麺類店発祥の地なり。
坂田孝造 識
PAPAN Kitchen

(天神橋)を眺めていて、新店では
ないのに、知らない店が!と、己の
不覚を恥じ、「PAPAN Kitchen」
(大阪市北区長柄中1-7-8)に足を
運んできました。住宅街の中のようで
ちょっと見つけにくいかな。ひとまず、
「ハートランド」ビールで喉を潤して、
口にした野菜サラダがシンプルに
旨い。スープも美味。ほっとさせられる滋味深い欧風カレーが懐かしく、店主の土田
展之氏から「初めてですか?」と訊かれて、記憶がスパーク。天六では創業10年目。
その前が南船場。さらにその前は、谷町六丁目の「伽麗伊屋」で23年修業していた
ようです。「大阪文学学校」の入っていた「新谷町第一ビル」(大阪市中央区谷町
7丁目2−2)と谷町筋を隔てて、向かいに在る名店でして、足繁く通っていた時期も
あるので、カレー屋ランナーの土田さんに、うっすらと記憶されていたのでしょうか。
ぼくは、しっとりとしたドライ・カレー(「自由軒」のカレーを連想してしまいます)に、
長崎芳寿豚のカツをトッピング。ハンバーグも食べ応え有り。ぼくらの後から入って
きたお客様3人も、皆がドライ・カレーを注文していたので、人気メニューですねえ。
参考文献:『究極のカレー 2021 関西版』(ぴあ)
tag : カレー