吉備津の釜
上田秋成の『雨月物語』は、昔から何度も繰り返し読んできたものの、
巻之三「吉備津の釜」のストーリー上の基点となる“鳴釜神事”については、
そういうものか、と受け取るだけで、きちんと調べることを怠ってきました。
桃太郎のモデルではないかといわれている吉備津彦との絡みがありまして、
その吉備津彦は、第10代・崇神天皇が各地に派遣した四道将軍の一角。
『日本書紀』によれば、第7代・孝霊天皇の子である彦(ひこ)五十狭芹彦命
(いさせりびこのみこと)とされ、その弟が稚武彦命(わかたけひこのみこと)であり、姉が
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)。この吉備津彦を祭神とする
「吉備津神社」(岡山市吉備津)には、鬼退治の伝承が残されているのでした。
☆
第十一代垂仁(すいにん)天皇の時代のことだ。吉備国に異国の鬼神が飛んでやってきた。この鬼神は百済(くだら)の王子と名乗り、名を温羅(うら)といい、吉備冠者(きびのかじゃ)とも呼ばれた。両目は爛々と輝き、毛髪は真っ赤で、身長は一丈四尺(約四メートル)、ありあまる怪力を持ち、性格は兇悪だったという。
温羅は備中国(びっちゅうのくに)の新山に居城を建て、そばの岩屋山(いわややま)に楯を立てた(城を造った)。海賊行為を繰り返し、婦女子を拉致したので、人びとは恐れ、温羅の住処(すみか)を「鬼(き)ノ城(じょう)」と呼び、都に訴え出たのだった。そこで五十狭芹彦命(いさせりびこのみこと)が遣わされた。
五十狭芹彦命は中山(吉備津神社の裏手。御神体)に陣取ると、西方の山に石の楯を立てた。これが楯築山(たてつきやま)で、要するに楯築墳丘墓である。
結局温羅は敗れたので、「吉備冠者」の名を、五十狭芹彦命に献上した。大吉備津彦の名は、ここに起こる。
この伝承で興味深い点は、いくつかある。
まず第一に、今も吉備津神社に残る特殊神事のことだ。それは御釜殿(おかまでん)で行われる「鳴釜(なるかま)の神事」で、釜で湯を沸かし、せいろの中に玄米を入れ、祝詞(のりと)をあげて玄米を揺すると、鬼が唸(うな)るように鳴き、それで吉凶禍福を占うのだという。この神事は、すでに奈良時代から、執り行われていたようである。
この神事の起源は、温羅の首である。
五十狭芹彦命は温羅の首をはねて晒(さら)し者にしたという。ところがその生首は、何年たっても大声を出して唸った。五十狭芹彦命は部下の犬飼武(いぬかいたける)に命じ、犬に生首を食べさせてしまった。髑髏(しゃれこうべ)になった温羅なのに、それでも吠え続けた。
そこで五十狭芹彦命は、首を吉備津宮の釜殿(かまでん)の竈(かまど)の下に埋めたが、十三年間唸り続け、あたりに響き渡ったという。
ある晩、五十狭芹彦命の夢枕に温羅が現れ、次のように告げた。
「わが妻、阿曾郷(あそごう)の祝(ほうり)の娘・阿曾媛(あぞめ)に命じて釜殿の御饌(みけ)を炊(た)かせよ。もし世の中に何か起きると、釜が鳴る。良いことがあるときは豊かに鳴り、災いあるときは荒々しく鳴るだろう」
そこで五十狭芹彦命は、温羅の霊を祀(まつ)り始めたというのである。
鳴釜の神事は今でも阿曾(という土地)出身の「阿曾媛」なる巫女が奉仕し、阿曾で造られた鉄の釜が用いられるという。阿曾とは、ちょうど鬼ノ城の麓(ふもと)のあたりだ。
ちなみに鬼ノ城は、七世紀に築かれた山城で、おそらく白村江(はくそんこう)の戦いに敗れた中大兄皇子(なかのおおえのみこ)が、唐と新羅(しらぎ)の連合軍が攻め寄せてくる恐怖に駆られ、あわてて築いたということらしい。
☆
吉祥凶祥の占い方が、上田秋成の作品中とは異なりますね。
『雨月物語』では、「湯の沸上(わきあが)るにおよびて、
吉祥(よきさが)には釜の鳴音(なるこゑ)牛の吼(ほゆ)るが如し。
凶(あし)きは釜に音なし」と書かれていました。釜の鳴る音など、
普段聞き慣れているものではないので、鳴り方がどうのという
違いより、“無音”の方が禍々(まがまが)しい印象は強まります。
参考文献:青木正次『新版 雨月物語 全訳注』(講談社学術文庫)
関裕二『物部氏の正体』(新潮文庫)
巻之三「吉備津の釜」のストーリー上の基点となる“鳴釜神事”については、
そういうものか、と受け取るだけで、きちんと調べることを怠ってきました。
桃太郎のモデルではないかといわれている吉備津彦との絡みがありまして、
その吉備津彦は、第10代・崇神天皇が各地に派遣した四道将軍の一角。
『日本書紀』によれば、第7代・孝霊天皇の子である彦(ひこ)五十狭芹彦命
(いさせりびこのみこと)とされ、その弟が稚武彦命(わかたけひこのみこと)であり、姉が
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)。この吉備津彦を祭神とする
「吉備津神社」(岡山市吉備津)には、鬼退治の伝承が残されているのでした。
☆
第十一代垂仁(すいにん)天皇の時代のことだ。吉備国に異国の鬼神が飛んでやってきた。この鬼神は百済(くだら)の王子と名乗り、名を温羅(うら)といい、吉備冠者(きびのかじゃ)とも呼ばれた。両目は爛々と輝き、毛髪は真っ赤で、身長は一丈四尺(約四メートル)、ありあまる怪力を持ち、性格は兇悪だったという。
温羅は備中国(びっちゅうのくに)の新山に居城を建て、そばの岩屋山(いわややま)に楯を立てた(城を造った)。海賊行為を繰り返し、婦女子を拉致したので、人びとは恐れ、温羅の住処(すみか)を「鬼(き)ノ城(じょう)」と呼び、都に訴え出たのだった。そこで五十狭芹彦命(いさせりびこのみこと)が遣わされた。
五十狭芹彦命は中山(吉備津神社の裏手。御神体)に陣取ると、西方の山に石の楯を立てた。これが楯築山(たてつきやま)で、要するに楯築墳丘墓である。
結局温羅は敗れたので、「吉備冠者」の名を、五十狭芹彦命に献上した。大吉備津彦の名は、ここに起こる。
この伝承で興味深い点は、いくつかある。
まず第一に、今も吉備津神社に残る特殊神事のことだ。それは御釜殿(おかまでん)で行われる「鳴釜(なるかま)の神事」で、釜で湯を沸かし、せいろの中に玄米を入れ、祝詞(のりと)をあげて玄米を揺すると、鬼が唸(うな)るように鳴き、それで吉凶禍福を占うのだという。この神事は、すでに奈良時代から、執り行われていたようである。
この神事の起源は、温羅の首である。
五十狭芹彦命は温羅の首をはねて晒(さら)し者にしたという。ところがその生首は、何年たっても大声を出して唸った。五十狭芹彦命は部下の犬飼武(いぬかいたける)に命じ、犬に生首を食べさせてしまった。髑髏(しゃれこうべ)になった温羅なのに、それでも吠え続けた。
そこで五十狭芹彦命は、首を吉備津宮の釜殿(かまでん)の竈(かまど)の下に埋めたが、十三年間唸り続け、あたりに響き渡ったという。
ある晩、五十狭芹彦命の夢枕に温羅が現れ、次のように告げた。
「わが妻、阿曾郷(あそごう)の祝(ほうり)の娘・阿曾媛(あぞめ)に命じて釜殿の御饌(みけ)を炊(た)かせよ。もし世の中に何か起きると、釜が鳴る。良いことがあるときは豊かに鳴り、災いあるときは荒々しく鳴るだろう」
そこで五十狭芹彦命は、温羅の霊を祀(まつ)り始めたというのである。
鳴釜の神事は今でも阿曾(という土地)出身の「阿曾媛」なる巫女が奉仕し、阿曾で造られた鉄の釜が用いられるという。阿曾とは、ちょうど鬼ノ城の麓(ふもと)のあたりだ。
ちなみに鬼ノ城は、七世紀に築かれた山城で、おそらく白村江(はくそんこう)の戦いに敗れた中大兄皇子(なかのおおえのみこ)が、唐と新羅(しらぎ)の連合軍が攻め寄せてくる恐怖に駆られ、あわてて築いたということらしい。
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吉祥凶祥の占い方が、上田秋成の作品中とは異なりますね。
『雨月物語』では、「湯の沸上(わきあが)るにおよびて、
吉祥(よきさが)には釜の鳴音(なるこゑ)牛の吼(ほゆ)るが如し。
凶(あし)きは釜に音なし」と書かれていました。釜の鳴る音など、
普段聞き慣れているものではないので、鳴り方がどうのという
違いより、“無音”の方が禍々(まがまが)しい印象は強まります。
参考文献:青木正次『新版 雨月物語 全訳注』(講談社学術文庫)
関裕二『物部氏の正体』(新潮文庫)
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