★ 2021年3月に読んだ本 ★
半藤一利『歴史探偵 忘れ残りの記』(文春新書)
『琵琶湖疏水の歴史散策』(近代京都の礎を観る会)……2018年度改訂版。
「琵琶湖疏水記念館」で購入。山科疏水のお花見でも活躍してくれました。
『地図で読む京都・岡崎年代史』(京都岡崎魅力づくり推進協議会)
……改名前の「京都市立美術館」で購入。ずっと寝かせていたけれど、ようやく
読む機会が訪れました。岡崎公園は、大阪市における天王寺公園なのだな。
松村博『京の橋ものがたり』(松籟社)
田辺聖子『大阪弁おもしろ草子』(中公文庫)……マイ・クラシック。『大阪弁
ちゃらんぽらん』に続けて読みましたが、最初に読んだのは学生時代でしたか。
松村博『八百八橋物語』(松籟社)
竹本住大夫『人間、やっぱり情でんなぁ』(文春文庫)……聞き書き・樋渡優子。
“文楽の鬼”と呼ばれた7代目・竹本住太夫(1924~2018)の最後の言葉。
ぼくが文楽を聴き始めた時期には、既に現役から引退していたのですけれども。
『新潮古典文学アルバム19 近松門左衛門』(新潮社)……編集・執筆が原道生
(明治大学)、エッセイが橋本治。5年前の講座で紹介されていた参考文献。
近松は“情”だけで読み解こうとすると、躓きます。ごつごつとしたロジックが
近松の真骨頂で、その理詰めの構築を詞章の底から汲み取らなければ。
何も触れないこと、周辺から語ることで、核心部分を浮かび上がらせる器量。
『琵琶湖疏水の歴史散策』(近代京都の礎を観る会)……2018年度改訂版。
「琵琶湖疏水記念館」で購入。山科疏水のお花見でも活躍してくれました。
『地図で読む京都・岡崎年代史』(京都岡崎魅力づくり推進協議会)
……改名前の「京都市立美術館」で購入。ずっと寝かせていたけれど、ようやく
読む機会が訪れました。岡崎公園は、大阪市における天王寺公園なのだな。
松村博『京の橋ものがたり』(松籟社)
田辺聖子『大阪弁おもしろ草子』(中公文庫)……マイ・クラシック。『大阪弁
ちゃらんぽらん』に続けて読みましたが、最初に読んだのは学生時代でしたか。
松村博『八百八橋物語』(松籟社)
竹本住大夫『人間、やっぱり情でんなぁ』(文春文庫)……聞き書き・樋渡優子。
“文楽の鬼”と呼ばれた7代目・竹本住太夫(1924~2018)の最後の言葉。
ぼくが文楽を聴き始めた時期には、既に現役から引退していたのですけれども。
『新潮古典文学アルバム19 近松門左衛門』(新潮社)……編集・執筆が原道生
(明治大学)、エッセイが橋本治。5年前の講座で紹介されていた参考文献。
近松は“情”だけで読み解こうとすると、躓きます。ごつごつとしたロジックが
近松の真骨頂で、その理詰めの構築を詞章の底から汲み取らなければ。
何も触れないこと、周辺から語ることで、核心部分を浮かび上がらせる器量。
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蓮如と山科
山科疏水沿いは、昭和48年(1973)3月31日に
散策路(公園?!)として整備され、「東山自然緑地」
と呼ばれています。その安祥寺~日ノ岡間の物件に
ついて記す前に、堺の橋について、書き残さなければ
……来月、3回に分けて、まとめてアップロード予定。
(山科疏水のコンクリート構造物についても、後日)
現在、読み進めている文庫本の文中、山科に関する
記述が目に留まったので(synchronicity)、引用します。
☆
(蓮如)上人が諸国を巡歴していわゆる御坊を建てたり、みずから住まって居た跡を見ると、まず本山は帝都の所在地でもあるから、京都に建てたかったであろうが、そこには山門の因襲的圧迫がなお衰えなかったから、京都には大谷の一向堂や小松谷を残して、別に山科にやや大規模の本山を建立したのであろう(その繁栄京都を凌ぐまでになったのは後の事であるが)。山科は海や大川こそなけれ、陸上の交通としては、京都から東海道へ行くにも、東山道へ行くにも、はたまた北陸道へ行くにも、ここでその咽喉を扼(やく)して居るほどの非常な要害の地であった。そこへ御影(みえ)堂、阿弥陀堂を始め、宏壮なる数多(あまた)の堂宇を建立して、非常に立派な庭座敷を設けながら、その周囲は土壁即ち土居(どい)で廻らし、さらにその外部に壕(ほり)を掘って、さながら城郭を形作った。
(三浦周行「中世の大阪」)
参考文献:三浦周行『大阪と堺』(岩波文庫)
散策路(公園?!)として整備され、「東山自然緑地」
と呼ばれています。その安祥寺~日ノ岡間の物件に
ついて記す前に、堺の橋について、書き残さなければ
……来月、3回に分けて、まとめてアップロード予定。
(山科疏水のコンクリート構造物についても、後日)
現在、読み進めている文庫本の文中、山科に関する
記述が目に留まったので(synchronicity)、引用します。
☆
(蓮如)上人が諸国を巡歴していわゆる御坊を建てたり、みずから住まって居た跡を見ると、まず本山は帝都の所在地でもあるから、京都に建てたかったであろうが、そこには山門の因襲的圧迫がなお衰えなかったから、京都には大谷の一向堂や小松谷を残して、別に山科にやや大規模の本山を建立したのであろう(その繁栄京都を凌ぐまでになったのは後の事であるが)。山科は海や大川こそなけれ、陸上の交通としては、京都から東海道へ行くにも、東山道へ行くにも、はたまた北陸道へ行くにも、ここでその咽喉を扼(やく)して居るほどの非常な要害の地であった。そこへ御影(みえ)堂、阿弥陀堂を始め、宏壮なる数多(あまた)の堂宇を建立して、非常に立派な庭座敷を設けながら、その周囲は土壁即ち土居(どい)で廻らし、さらにその外部に壕(ほり)を掘って、さながら城郭を形作った。
(三浦周行「中世の大阪」)
参考文献:三浦周行『大阪と堺』(岩波文庫)