fc2ブログ

★ 2021年5月に読んだ本 ★

監修・中村淳彦『証言 貧困女子』(宝島社新書)……格差社会、貧困問題は相も
 変わらず。戦争は起こらないかもしれない。でも、テロや内乱を封殺するための
 行き過ぎた過剰な管理社会は、戦時体制と変わらないような。戦場は頭の中。
三宅周太郎『続 文楽の研究』(岩波文庫)
『聖徳太子かるた』(総本山四天王寺)……本じゃないけどね。画・川崎ゆきお
聞き手=森西真弓『吉田玉男 文楽藝話』(祥文社)
 ……編集=国立劇場調査資料課、国立劇場上演資料集〈増刊〉。
 昔、天神橋筋商店街の2階に上がった演劇関係の古書店で入手。
 森西真弓氏の献辞入り。今のぼくなら、読むことが出来ます。
稲羽白菟『合邦の密室』(原書房)
……文楽+ミステリー。う~ん。期待して、ずっと寝かせていたのですが、微妙。
竹田出雲『菅原伝授手習鑑』(岩波文庫)
竹田出雲等『義経千本桜』(岩波文庫)……ようやく、人形浄瑠璃文楽・歌舞伎の
 三大名作近松門左衛門は含まれず)を押さえたぞ、と。大人になったかな。
犬丸治『「菅原伝授手習鑑」精読』(岩波現代文庫)
瑞佐富郎『笑えるプロレス』(ブレインハウス)
『令和三年 春季名宝展』(四天王寺勧学部)……副題に「“小さな”仏教―仏教
美術の微細な世界―
」四天王寺の同展で頂いたリーフレット。カラー図版も充実。
小林惠子『聖徳太子の真相』(祥伝社新書)……“トンデモ本”と一蹴したいのは
 山々ですけれども、論証過程は別として、呈示された聖徳太子像が面白過ぎて。
小林秀雄『近代絵画』(新潮文庫)……マイ・クラシック。昔に読んだ時の文庫本と
 違って、カラー図版のページが増えているのは、いいね。始まりはボードレール
 中学生時代、図書館の片隅に籠もっては、ボードレールの詩集を読み耽り、
 あちらこちらの画集を引っ繰り返していました。当時からシュルレアリスム好き。
金子啓明『もっと知りたい法隆寺の仏たち』(東京美術)
大山誠一『聖徳太子と日本人』(角川ソフィア文庫)……発表当時は、野中寺」の
 弥勒像
が贋作とされていた頃で、「おそらく間違いないであろう」と軽く断定されて
 おり、肝を冷やしました。肝心の本筋(聖徳太子非実在説)とは無関係ですけど。
 書かれた物は全てフィクションであり、“小説”であると考えていれば、びくともせず。
関裕二『聖徳太子は蘇我入鹿である』(晋遊舎新書)……昨冬に文庫版を読んで
 いました。初版は平成3年(1991)4月。本書は文庫版を底本に、大幅に修正した
 2012年4月25日発行の初版。聖徳太子の正体は……史料が無いのだから、物的
 証拠が揃わないところで、何を言おうと憶測ですけれど、突厥達頭可汗の話を
 聞かされた後だと、蘇我善徳くらいならば、許容範囲に入ってきそうな気がしてくる
 不思議。しかし、中大兄皇子は何をしたかったのか、不得要領な行為ばかりだな。
 
スポンサーサイト



テーマ : 読書記録
ジャンル : 小説・文学

琵琶湖疏水煉瓦工場跡

山科疏水の「第11号橋」に最も近い駅は、京都2021_03_30_琵琶湖疏水煉瓦工場跡
市営地下鉄の御陵(みささぎ)。三条通に面した
2番出口の隅っこ(肩身が狭そう)に、「琵琶湖
疏水煉瓦工場跡
」の石標と、煉瓦の現物が
無造作に置かれています。“近代建築”と言えば
やっぱり、煉瓦でしょ。説明文は以下のとおり。
       ☆
 鏡山・天智天皇陵を背景に、疏水建設に
必要な煉瓦製造工場が御陵原西町一帯に
設けられた。
 当時わが国には、この大工事を賄う煉瓦製造能力がなく、
京都府は自給の方針を立て、原料の採取と製品の運搬に適したこの地を選定、
若き技師 菊田宗太郎を起用し、明治19年7月操業開始、明治22年10月に
閉鎖されるまで1370万個を製造した。
 京都再生への命運をかけた琵琶湖疏水建設が、日本の近代土木・
工業技術等の発展の魁となった足跡を語る遺跡である。

煉瓦工場概要
 敷地13,471坪 工場10棟 窯場3棟
           窯 12ヶ所 煙突8基

テーマ : 建築
ジャンル : 学問・文化・芸術

tag : 近代建築史跡

山科疏水の橋(9)

2021_03_30_日本最初の鉄筋コンクリート橋 もう5月も終わるという頃合いに、2か月も前の
 花見の思い出を書き残します。季節があまりに
 早く過ぎ去ってしまうものですから。JR山科駅を
 起点にして、琵琶湖疏水の一部である山科
 疏水
のさらに一部(「安朱橋」~本稿で触れる
 「第3トンネル」)を踏破した訳です。山科疏水は
 山科盆地の北側の山裾に沿って流れるエリア。
 「東山自然緑地」公園として整備されています
 から、快適に散策等を楽しめますよ。このような
時節でなければねえ。さて、今回の探索で、最も恋い
焦がれていた橋が、「第11号橋」。「第10号橋」と2021_03_30_第11号橋
栗原伸邸」で気分が盛り上がったところで、いよいよ
と気が逸っていたものですから、最初、遠目に見た
日ノ岡取水池橋」を「第11号橋」と取り違えてしまい
ました。三角橋ではないですが、「日ノ岡取水池橋」も
橋の両岸より高く造られているので、その流れの先が
見えないのです。「日ノ岡取水池橋」の袂まで上がって
初めて、おや、あそこにも小さな橋があるぞ、と。
それが“日本最初の鉄筋コンクリート橋”でした。
そう記した石柱も、左岸の上り口に建っています。
       ☆
2021_03_30_本邦最初鉄筋混凝土橋 しかし、言われなければ、
 そうと知らなければ、まず見落とすであろう 地味な小橋。
 でも、国の史跡にも指定されているのよ。保存のため、
 鉄柵で物々しく防護されていまして、そうなると、余計に
 橋が目立たなくなってしまうという。田邉朔郎がトロッコ
 ・レールを用いて、明治36年(1903)に建設した米蘭
 (メラン)式鉄筋コンクリート橋。その設計データを基にして
 「第10号橋」も設計し、来るべき大型化を見据えていた
 そうです。橋を渡った所に建てられた石碑、「本邦最初
 鉄筋混凝土橋
」の方が、「第11号橋」よりも大きく、
 威圧的に見えて、何だかなあ、と感じていたのですが、
 そのうち、1世紀以上もの間、独りで風雪に耐えてきた
「第11号橋」が愛おしくも見えてきました。
「新山科浄水場導水トンネル取水池」の端に2021_03_30_第3トンネル
架かっている状態で、疏水のすぐ先には
第3トンネル」(850m)が待ち構えています。
東口洞門の上部に掲げられた扁額の揮毫は、
松方正義による「過雨看松色」でした。
「第3トンネル」を抜ければ、蹴上に至ります。
扁額の近くへ寄ろうとして、「鉄筋混凝土橋」
碑の周辺に歩を進めてみれば、煉瓦の欠けらが
ごろごろ。明治の煉瓦の成れの果てかしら。

参考文献:『琵琶湖疏水の歴史散策』(近代京都の礎を観る会)

テーマ : 建築
ジャンル : 学問・文化・芸術

tag : 史跡近代建築

太子 meets 達磨

もりやま屋」でチキン・カレーを食べながら、
チャイを飲んでいました。BGMはずっと殿下。
マスター、わかっているなあ。殿下は殿下でも、
聖徳太子のことをしばらく考え続けてみます。
先週訪ねた「片岡山 達磨寺」に思いを馳せて。
       ☆
一般に、片岡山の飢者説話とよばれている話がある。推古二十一年十二月一日条に、皇太子すなわち聖徳太子が、片岡山へ遊行する話である。片岡山は、法隆寺のある斑鳩(いかるが)の南方のあまり高くない山である。その山の道のほとりで、倒れている飢者(うえたるひと)と出あい、哀れんで飲食と衣を与える。その時「しなてる片岡山に飯(いひ)に飢(ゑ)て臥(こや)せるその旅人あはれ(以下略)」という歌を詠んだことになっている。翌日、飢者が死んだので土中に葬らせたが、その数日後、太子が「あの飢者は凡人(ただひと)ではなく、かならず真人(ひじり)であろう」と述べ、使を派遣すると、墓には変化がなかったが、中に屍骨はなく、衣服が棺の上に畳まれていた。そこで、太子は、その衣を取り常の如く着用した。時の人は「聖(ひじり)の聖を知ること、実(まこと)である」と言った、というものである。はなはだ奇妙な話であるが、これが神仙思想および道教思想と関係することは歴然である。
       ☆
解説を加えると、「真人」とは、無為自然にして絶対自由を得て、
不死を達成した至上最高の人物、仙人の最高位とされます。
また、抜け殻の身体を残し、魂が昇天して仙人になることで、
(肉体を取り戻した結果)衣服等のみが後に残る状況は、
仙人になる方法の一つ、尸解(しかい)で説かれる現象です。
うん? 飢者(飢人)は達磨の生まれ変わりという伝説の元
なのですが、上記の引用文中では、まだ登場してきていません。
単なる行き倒れ、もしくは、無名の尸解仙との遭遇で終わらせず、
実は達磨だった!と付け加えたのは、敬明による『上宮太子伝』
そもそも、達磨と恵思は中国で出会っているのだから、片岡山伝説は、
(再生)達磨と、(転生した恵思=)聖徳太子のドラマチックな再会なのね。
『日本書紀』の元ネタの扱いが絶妙な敬明に、感服させられます。

参考文献:大山誠一『聖徳太子と日本人』(角川ソフィア文庫)

テーマ : 仏教・佛教
ジャンル : 学問・文化・芸術

tag : つぶやきカレー黒い音

聖徳太子と鑑真

京都奈良の国立博物館で、ほぼ同時期に、特別展
鑑真和上と戒律のあゆみ」と「聖徳太子と法隆寺」が
開催されていた意味に、後から気付くなんてねえ。
聖徳太子が鑑真を呼び寄せた――という事の次第です。
淡海三船(722~785)による『唐大和上東征伝』の概略を転記。
       ☆
 日本に戒律を伝える師を求めて唐に渡った僧の栄叡(えいよう)普照は、唐の天宝元年(七四二)の冬、揚州大明寺に在住していた鑑真大和上のもとを訪れ、仏法が東流して日本に至ったが、現在の日本には仏法を正しく伝える人がいない。また、かつて聖徳太子という方がおられ、二百年の後に仏法が日本で興隆すると言われたが、今がその時です。ですから、どうか大和上が日本に来遊され、人々を導いていただきたい、と懇願した。大和上はこれに答えて、その昔、南岳(衡山)の恵思慧思とも書く)禅師は、遷化ののち倭国の王子(聖徳太子)に生まれかわり、仏法を興隆し、衆生を済度されたと聞いている。また、日本の長屋王は、深く仏教に帰依して、千肩もの袈裟を作り、唐の高僧を始め多くの僧に布施し、その袈裟には四句の偈が刺繍されていて「山川域を異(こと)にすれども、風月天を同じくす。これを仏子に寄せて、共に来縁を結ばん」とあったとも聞いている。まことに日本は仏法興隆に縁(ゆかり)がある国である。と言って、弟子たちに向かい、誰か、この遠くからの求めに応じて、日本へ行き、仏法を伝えるものはいないかと尋ねたが、一人も応答するものがないのを見て、それでは私自身が行こうと答えたという。
       ☆
この文脈で、長屋王(684~729)の名が現れるのが怖いところ。
さて、南岳の恵思禅師(515~577)は、天台宗の開祖・智顗
(538~597)の師に当たる中国の高僧。鑑真(688~763)は、
戒律だけでなく、法華経を重視する天台教学も研究しており、
日本の天台宗の開祖・最澄(767~822)は、鑑真が持ち来った
天台教学の書に学んだとされています。鑑真が法脈を継いだ
先達である恵思(=聖徳太子)に呼ばれたのならば、来日
せざるを得ないでしょう。後に、恵思転生説は敷衍されて、
最澄が“聖徳太子の玄孫”と称することにもつながります。

参考文献:大山誠一『聖徳太子と日本人』(角川ソフィア文庫)

テーマ : 仏教・佛教
ジャンル : 学問・文化・芸術

tag : つぶやき

道教⇒天皇号

聖徳太子(や鑑真)のことについて調べていると、
天皇制にぶち当たってしまうことの不思議……
いや、不思議でもないのかな。「天皇」って、何? 
「不思議なめぐり合わせ」でも何でもなく、天皇が
神仙世界に遊ぶ間、実際の政治は補佐する臣が
当たればよい――というシステムを構築したのだな。
責任者が不在で、自分で決断しようとしない国。
       ☆
今日では、中国で、唐の高宗の上元(じょうげん)元年(六七四)に、君主の称号が「皇帝」から「天皇」に代わったが、その情報が、天武朝(六七二―六八六)に日本に伝わり、持統三年(六八九)に編纂された飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)において正式に採用され、天武天皇に対して最初の「天皇」号が捧げられたというのが定説である。最近(一九九八年)、奈良の飛鳥寺の近くの飛鳥池遺跡から「天皇」の語を記した木簡が出土したが、その年代は、天武・持統朝ということで、最古の使用例と報道された。(中略)
 なお、「天皇」は、本来は、中国の伝統思想である道教において、宇宙の最高神とされた存在だったが、道教の創始者に擬せられる老子と唐の皇室が同じ姓であったため、唐の皇室は老子を遠祖として敬うようになり、さらに熱心な道教信者であった高宗にいたって君主号を「天皇」とすることになったのである。それを日本側が採用した事情であるが、単なる君主号としてではなく、天武十三年(六八四)に定められた八色(やくさ)の姓(かばね)真人(まひと)が道教で仙人の最高位を、道師が道教教団の指導者を意味し、天武の和風諡号の天渟中原瀛真人(あまのぬなはらのおきのまひと)が道教で海のかなたの神仙世界の最高位を意味していることなどから、道教思想を受容する一環としてであったことも確かなようである。ただし、中国では、実際の政治は、やはり儒教で行われるので、この天皇号は定着せず、高宗一代で終わり、むしろ日本で定着することになったのは不思議なめぐり合わせと言えよう。

参考文献:大山誠一『聖徳太子と日本人』(角川ソフィア文庫)

テーマ : 仏教・佛教
ジャンル : 学問・文化・芸術

tag : つぶやき

急いで延ばせ

早出を行ったし、残業時間の兼ね合いもありまして、
19時に退出したかな。「緊急事態宣言の再延長」を
要請されているようだけれども、背に腹を代えられぬ
飲食店などは、開き直ったかのようにアルコール提供
するは、閉店時刻もよくわからないは……前々週の
日曜日(16日)に入った焼き肉ホルモン「大松」芝田
店はえらい混みようで、この夜は20分待ちと聞かされて、
阪急東通商店街へエスケープ。先月利用した時は、
時短に協力していた「かどや」でしたが、元に戻したか、
21時を過ぎても、続々と客が入ってきていましたわ。
仕事上がりのサラリーマンがTVでプロ野球を観ながら、
放談している様は、懐かしの昭和の光景でしたよ。
呑み喰いは軽く抑えながらも、豆腐田楽は忘れずに。
(でもさ、“延長”できるような“緊急”って、何なのよ?)
       ☆
P.S. ランチは「もりやま屋」。客が少ないから、と
チャイを大盛りでサービスしていただきました。カレーが
美味なばかりか、BGMが古のソウル・ナンバーなのも○。
あと、夜は曇り空。スーパームーンの皆既月食は観測不可。

テーマ : ご当地グルメ
ジャンル : グルメ

tag : 呑む豆腐カレー黒い音

梅田の歴史

前週土曜日に、大阪市北区役所・政策推進課から
DVDが届いていました。本来であれば、1週間前(18日
10時~)、「まち歩きガイドボランティア養成講座」の
第1回講義「梅田の歴史」に参加する予定だったのです
が、「緊急事態宣言」発出下、開催方法が変更されて
(5月28日の第2回「まち歩き体験」は延期)、「Microsoft
Teams」によるオンライン受講か、DVD視聴となっており、
ぼくはDVDを選択。レジメを読みつつ、2回、動画を視聴。
講師は「喜多埜天神社(=綱敷天神社)」の禰宜、
白江秀知氏。大まかな流れは知っているとはいえ、
今後は細かい史料も押さえておかないといけないなあ。
直後、VODで、英勉・監督『妖怪人間ベラ』(2020)を鑑賞。

テーマ : 史跡
ジャンル : 学問・文化・芸術

tag : 講座史跡映画

三棟造り(法隆寺・東大門)

2021_05_22_法隆寺_東大門 「達磨寺」を訪ねた5月22日、再度、
 「法隆寺」をも訪れているのでした。
 だって、JR大和路線で1駅だもの。
 もしや、と一縷の期待を懸けてみた
 「中宮寺」は拝観停止。あっさりと
 諦め、「法隆寺」東大門(国宝)を
 観察。三棟(みつむね)造りであること
 から、どちらの軒下に立っても、庇が
 二重になっていることがわかります。
切り妻造り、本瓦葺きの八脚門。妻側に回って見ると、二重虹梁蟇股(かえるまた)

参考記事:文化遺産データベース ― 法隆寺東大門

テーマ : 建築
ジャンル : 学問・文化・芸術

tag : 建築

王寺町の橋

奈良県・王寺町の橋の本数が決して
2021_05_22_王寺大橋
2021_05_22_達磨橋

少ない訳ではないのですけれども、
今回は2本だけ紹介します。「久度
大橋
」を南へ渡り、雪丸ロードを辿って
行けば、葛下川に逢着し、左手に
王寺大橋」(右上画像)が見えてくる
でしょう。王寺駅南駅前広場を起点と
して、国道25号へ至る駅前幹線の
一部です。平成20年(2008)3月23日
開通(5径間連続鋼床版鈑桁橋)。
桁下を潜って、雪丸ロードを先へ進む
と「達磨橋」(右下画像)です。北詰の
北西角には王寺町役場、南袂には
雪丸、王寺町のシンボル「(やわらぎ)
の鐘」が建っていました。雪丸の像は
JR王寺駅のコンコースで見かけた物と
同キャラクター。なお、葛下(かつげ)川は
大和川の支流の一つとなります。

テーマ : 建築
ジャンル : 学問・文化・芸術

tag :

カレンダー
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
Access Counter
総閲覧者数:
Online Counter
現在の閲覧者数:
最新記事
最新コメント
最新トラックバック
カテゴリー
プロフィール

ぽか

Author:ぽか
⇒ 旧プロフィール

歌わない詩人、喰えない物書き。
たまに「考える人」、歴史探偵。
フードビジネス・コンサルタント
(自称)。
好きな言葉は「ごちそうさま」。

リンク
月別アーカイブ
検索フォーム
Amazon
QRコード
QR
RSSリンクの表示
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

メルマガ登録はこちらから
購読希望者はメール・アドレスを書き入れて「送信」してね!
SOUKEN