日羅公之碑
「聖徳太子かるた」の「く」の読み札
には、「百済国 日羅遣(つか)わし
太子と邂逅」と書かれ、裏面の解説
「日羅(にちら)と太子」を読むと、「日羅
とは当時の百済国の僧侶で、父は
九州の豪族、母は朝鮮半島の人と
いわれます。その賢勇たる噂は
日本に於いても有名で、敏達12年
(583)、朝鮮半島の情勢を協議
する為に来日された際、太子を一目見るや
『このお方こそ伝説の救世観世音菩薩様に違いない』と拝し合掌されました。
その時、太子の眉間から眩い光が放たれ、後光が射していたといいます」。
☆
日羅と聞いて、何やら、記憶が蠢いて。そう、近場の「源八橋」の袂を下りた所に
「日羅公之碑」(2020年4月23日撮影分)が建っていましたわ。碑文を転記してみます。
☆
日羅公は肥後国葦北国造の子で 敏達天皇の御代 久しく
百済国に住んで 政治の要路にあり 非凡の知勇を内外に知られていた
天皇は公の献策を用いて国勢の伸張を計ろうとせられ 公を召して
帰国せしめられた公は御諮詢に応えて 民生外交に関し
種々方策を献じたが これを百済に不利として
彼地より隨伴して来た者のために暗殺せられるところとなった
詔によつて 一旦 難波小郡西畔丘前に収葬せられたが
この地はその初葬の地であると言われる
ことに顕彰の事に当られた日羅公薫續顕彰記念会が
さらに戦災による荒廃を修復せられたことは 時節柄
まことに当を得たことと思い ここに公の事蹟を記してその記念とする
昭和三十年六月二十五日
大阪市長 中井光次 書
☆
『日本書紀』に記されている「難波(なにわの)小郡(おごおりの)西畔丘前(にしの
ほとりのおかさき)」が、公之碑の所在地(大阪市北区天満橋2丁目2−33)と
いわれる根拠がよくわからず。また、『聖徳太子伝暦』や『今昔物語』でも
描かれた聖徳太子との邂逅について、碑文では一切触れていませんねえ。
敏達天皇(第30代)の次代が、聖徳太子の父である用明天皇でした。
敏達3年(574)生まれの太子ならば、日羅の来日時、9歳でしょうか。
現実に起こり得た出来事だったとしても、まさに、一瞬の閃光のような……。

には、「百済国 日羅遣(つか)わし
太子と邂逅」と書かれ、裏面の解説
「日羅(にちら)と太子」を読むと、「日羅
とは当時の百済国の僧侶で、父は
九州の豪族、母は朝鮮半島の人と
いわれます。その賢勇たる噂は
日本に於いても有名で、敏達12年
(583)、朝鮮半島の情勢を協議
する為に来日された際、太子を一目見るや
『このお方こそ伝説の救世観世音菩薩様に違いない』と拝し合掌されました。
その時、太子の眉間から眩い光が放たれ、後光が射していたといいます」。
☆
日羅と聞いて、何やら、記憶が蠢いて。そう、近場の「源八橋」の袂を下りた所に
「日羅公之碑」(2020年4月23日撮影分)が建っていましたわ。碑文を転記してみます。
☆
日羅公は肥後国葦北国造の子で 敏達天皇の御代 久しく
百済国に住んで 政治の要路にあり 非凡の知勇を内外に知られていた
天皇は公の献策を用いて国勢の伸張を計ろうとせられ 公を召して
帰国せしめられた公は御諮詢に応えて 民生外交に関し
種々方策を献じたが これを百済に不利として
彼地より隨伴して来た者のために暗殺せられるところとなった
詔によつて 一旦 難波小郡西畔丘前に収葬せられたが
この地はその初葬の地であると言われる
ことに顕彰の事に当られた日羅公薫續顕彰記念会が
さらに戦災による荒廃を修復せられたことは 時節柄
まことに当を得たことと思い ここに公の事蹟を記してその記念とする
昭和三十年六月二十五日
大阪市長 中井光次 書
☆
『日本書紀』に記されている「難波(なにわの)小郡(おごおりの)西畔丘前(にしの
ほとりのおかさき)」が、公之碑の所在地(大阪市北区天満橋2丁目2−33)と
いわれる根拠がよくわからず。また、『聖徳太子伝暦』や『今昔物語』でも
描かれた聖徳太子との邂逅について、碑文では一切触れていませんねえ。
敏達天皇(第30代)の次代が、聖徳太子の父である用明天皇でした。
敏達3年(574)生まれの太子ならば、日羅の来日時、9歳でしょうか。
現実に起こり得た出来事だったとしても、まさに、一瞬の閃光のような……。
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