猫塚(松乃木大明神)
前日、予約していた落語会「アーバン寄席 in 梅田」
(5月17日)の中止の知らせがメールで届き、奈良県
・王寺でのイベント「聖徳太子を慕う道」(5月22日)も
中止と電話が入りました……「京都国立博物館」は、
どうなりますことやら。5月11日(火)、Osaka Metro
・堺筋線に扇町から乗り、動物園前で下車しました。
飛田本通商店街(動物園前一番街・二番街)の
アーケードに一旦入り、南下して、スーパー「玉出」を
過ぎました 次の右の脇道に折れ、徘徊していますと、
「松乃木大明神」(大阪市西成区太子2-3-19)の
扁額が掛かった小さな社が見え……狛狐が両サイドに
控えているので、やはり稲荷社ですね。鳥居を入って
右手には「薬師如来」が祀られていますが、左手には
巨大な「近松門左衛門碑」(右画像)を見上げる次第。
明治30年(1897)、現在の天王寺公園に当たる土地に
室上(小右衛門?!)が建てた物のようでして、明治36年
(1903)の第5回「内国勧業博覧会」に際して、地主である室上小三郎が
発起人となり、現在地に移された模様。碑文自体に、(近松)“門左衛門”の
文字は無く、“平安堂近松巣林子信盛碑”とあります。近松の本名が
杉森「信盛」、「平安堂」、「巣林子」はいずれも近松の別名です。
☆
「近松門左衛門碑」と松乃木大明神の
間に挟まれているのが、同じく、室上
小三郎によって建てられた「猫塚」。
明治34年(1901)、三味線の胴に
張る猫の供養に、遊芸関係者らの
拠金を得て制作され、三味線の胴の
形をしています。ただ、門左衛門碑
より(数年)早くに建立されているに
しては、肩身が狭過ぎるように窺え、
後から若干移動させられた(隅に追いやられた)のではないかと推測してみるところ。
松乃木大明神を出ますと、山王(飛田新地)周辺に足を延ばしました。「五龍神結界」
という気になる物件はあるのです(それがなくとも、遊郭建築の探訪だけでも、面白い
ものです)が、土地柄も土地柄、夕刻も迫っているとあれば、撤収せざるを得ません。

(5月17日)の中止の知らせがメールで届き、奈良県
・王寺でのイベント「聖徳太子を慕う道」(5月22日)も
中止と電話が入りました……「京都国立博物館」は、
どうなりますことやら。5月11日(火)、Osaka Metro
・堺筋線に扇町から乗り、動物園前で下車しました。
飛田本通商店街(動物園前一番街・二番街)の
アーケードに一旦入り、南下して、スーパー「玉出」を
過ぎました 次の右の脇道に折れ、徘徊していますと、
「松乃木大明神」(大阪市西成区太子2-3-19)の
扁額が掛かった小さな社が見え……狛狐が両サイドに
控えているので、やはり稲荷社ですね。鳥居を入って
右手には「薬師如来」が祀られていますが、左手には
巨大な「近松門左衛門碑」(右画像)を見上げる次第。
明治30年(1897)、現在の天王寺公園に当たる土地に
室上(小右衛門?!)が建てた物のようでして、明治36年
(1903)の第5回「内国勧業博覧会」に際して、地主である室上小三郎が
発起人となり、現在地に移された模様。碑文自体に、(近松)“門左衛門”の
文字は無く、“平安堂近松巣林子信盛碑”とあります。近松の本名が
杉森「信盛」、「平安堂」、「巣林子」はいずれも近松の別名です。
☆

間に挟まれているのが、同じく、室上
小三郎によって建てられた「猫塚」。
明治34年(1901)、三味線の胴に
張る猫の供養に、遊芸関係者らの
拠金を得て制作され、三味線の胴の
形をしています。ただ、門左衛門碑
より(数年)早くに建立されているに
しては、肩身が狭過ぎるように窺え、
後から若干移動させられた(隅に追いやられた)のではないかと推測してみるところ。
松乃木大明神を出ますと、山王(飛田新地)周辺に足を延ばしました。「五龍神結界」
という気になる物件はあるのです(それがなくとも、遊郭建築の探訪だけでも、面白い
ものです)が、土地柄も土地柄、夕刻も迫っているとあれば、撤収せざるを得ません。
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