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聖徳太子と鑑真

京都奈良の国立博物館で、ほぼ同時期に、特別展
鑑真和上と戒律のあゆみ」と「聖徳太子と法隆寺」が
開催されていた意味に、後から気付くなんてねえ。
聖徳太子が鑑真を呼び寄せた――という事の次第です。
淡海三船(722~785)による『唐大和上東征伝』の概略を転記。
       ☆
 日本に戒律を伝える師を求めて唐に渡った僧の栄叡(えいよう)普照は、唐の天宝元年(七四二)の冬、揚州大明寺に在住していた鑑真大和上のもとを訪れ、仏法が東流して日本に至ったが、現在の日本には仏法を正しく伝える人がいない。また、かつて聖徳太子という方がおられ、二百年の後に仏法が日本で興隆すると言われたが、今がその時です。ですから、どうか大和上が日本に来遊され、人々を導いていただきたい、と懇願した。大和上はこれに答えて、その昔、南岳(衡山)の恵思慧思とも書く)禅師は、遷化ののち倭国の王子(聖徳太子)に生まれかわり、仏法を興隆し、衆生を済度されたと聞いている。また、日本の長屋王は、深く仏教に帰依して、千肩もの袈裟を作り、唐の高僧を始め多くの僧に布施し、その袈裟には四句の偈が刺繍されていて「山川域を異(こと)にすれども、風月天を同じくす。これを仏子に寄せて、共に来縁を結ばん」とあったとも聞いている。まことに日本は仏法興隆に縁(ゆかり)がある国である。と言って、弟子たちに向かい、誰か、この遠くからの求めに応じて、日本へ行き、仏法を伝えるものはいないかと尋ねたが、一人も応答するものがないのを見て、それでは私自身が行こうと答えたという。
       ☆
この文脈で、長屋王(684~729)の名が現れるのが怖いところ。
さて、南岳の恵思禅師(515~577)は、天台宗の開祖・智顗
(538~597)の師に当たる中国の高僧。鑑真(688~763)は、
戒律だけでなく、法華経を重視する天台教学も研究しており、
日本の天台宗の開祖・最澄(767~822)は、鑑真が持ち来った
天台教学の書に学んだとされています。鑑真が法脈を継いだ
先達である恵思(=聖徳太子)に呼ばれたのならば、来日
せざるを得ないでしょう。後に、恵思転生説は敷衍されて、
最澄が“聖徳太子の玄孫”と称することにもつながります。

参考文献:大山誠一『聖徳太子と日本人』(角川ソフィア文庫)
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テーマ : 仏教・佛教
ジャンル : 学問・文化・芸術

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