豆腐国学
桂文我の落語会で見聞した吉田悦之=「本居宣長記念館」
名誉館長の著書を読んでいますと、本居宣長(1730~1801)の
古参の門人、稲懸(いながき)棟隆(むねたか)の名が出てきます。
稲懸棟隆(1730~1800)は、伊勢国松坂(現・三重県松阪市)の
町人にして、国学者とされますが、藤原俊成の歌の「物のあわれ
(物のあはれ)」について、宣長に質問した人物ではなかったか?
と、着目されているのでした。単なる町人では片付けられません。
☆
確証は得られないが、きっと本町で豆腐屋を営んでいた 稲懸棟隆(田丸屋十介)ではなかったか。棟隆は宣長と同い年。風流人であり、かなりの学識があった人だ。宣長の『梅桜草の庵花のすまひ(相撲)』もこの人の質問がきっかけとなって書かれた。『源氏物語』への関心もあり、国語学でも業績も残す。また吉野飛鳥への旅(『菅笠日記』)には息子と連れだって参加した。その息子というのが、後の本居大平(おおひら)である。
☆
春庭(=宣長の長男)がいとこの村田壱岐と結婚したのは寛政九年の年の暮れであった。翌年六月『古事記伝』終業。その半年後、寛政十一年正月には、宣長は門人稲懸大平を、失明した春庭に代えて家を相続させるべく、その手続きのために和歌山に出府する。盲目の春庭はこれでやっと重圧から解放され、自分の人生を歩むことが出来るようになった。
和歌山からの帰途には吉野水分神社に参拝をして、帰郷後には松坂で七十賀会が開かれた。
七十一歳の正月、宣長は自分の文机を養子の大平に譲った。京都で誂えてから四十年以上使い続けた机である。そこに歌を添えた。
年を経て 此のふづくゑに よるひると 我がせしがごと なれもつとめよ
大平は松坂の豆腐屋の倅。宣長の友達だった父に連れられ、十三の年から先生の下で学んできた。先生の学問がどんな緊張感に満ちたものであるのか、真剣なものであるのか、他の誰よりも分かっていた。
参考文献:吉田悦之『宣長にまねぶ』(致知出版社)
名誉館長の著書を読んでいますと、本居宣長(1730~1801)の
古参の門人、稲懸(いながき)棟隆(むねたか)の名が出てきます。
稲懸棟隆(1730~1800)は、伊勢国松坂(現・三重県松阪市)の
町人にして、国学者とされますが、藤原俊成の歌の「物のあわれ
(物のあはれ)」について、宣長に質問した人物ではなかったか?
と、着目されているのでした。単なる町人では片付けられません。
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確証は得られないが、きっと本町で豆腐屋を営んでいた 稲懸棟隆(田丸屋十介)ではなかったか。棟隆は宣長と同い年。風流人であり、かなりの学識があった人だ。宣長の『梅桜草の庵花のすまひ(相撲)』もこの人の質問がきっかけとなって書かれた。『源氏物語』への関心もあり、国語学でも業績も残す。また吉野飛鳥への旅(『菅笠日記』)には息子と連れだって参加した。その息子というのが、後の本居大平(おおひら)である。
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春庭(=宣長の長男)がいとこの村田壱岐と結婚したのは寛政九年の年の暮れであった。翌年六月『古事記伝』終業。その半年後、寛政十一年正月には、宣長は門人稲懸大平を、失明した春庭に代えて家を相続させるべく、その手続きのために和歌山に出府する。盲目の春庭はこれでやっと重圧から解放され、自分の人生を歩むことが出来るようになった。
和歌山からの帰途には吉野水分神社に参拝をして、帰郷後には松坂で七十賀会が開かれた。
七十一歳の正月、宣長は自分の文机を養子の大平に譲った。京都で誂えてから四十年以上使い続けた机である。そこに歌を添えた。
年を経て 此のふづくゑに よるひると 我がせしがごと なれもつとめよ
大平は松坂の豆腐屋の倅。宣長の友達だった父に連れられ、十三の年から先生の下で学んできた。先生の学問がどんな緊張感に満ちたものであるのか、真剣なものであるのか、他の誰よりも分かっていた。
参考文献:吉田悦之『宣長にまねぶ』(致知出版社)
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