地球を持ち上げろ
「日本銀行大阪支店」前に、「駅逓司(えきていし)
大阪郵便役所跡」の碑(石柱)が建っています。
左角に建つ「1971 郵便創業100年記念」の
「郵便は世界を結ぶ」と謳っている記念ポストの
方が目立ってはいますが、逆算するところの
1871年=明治4年3月、大阪~京都・東京間で
初の郵便制度が開設され、元は島原藩蔵屋敷の
置かれていた同地に、「書状集箱」、「集信箱」
と呼ばれるポストが置かれたのでありました。
現在のポストと外観が異なり、賽銭箱に雨覆いを
取り付けたような形状でした。明治6年(1873)に大阪郵便役所(一等)、
明治8年(1875)に大阪郵便局(一等)となり、為替を取り扱い始めます。
☆
「天神橋」南詰の南東角に位置する「北浜東郵便局」。
その前身が「大阪中央郵便局逓信局内分室(~郵政局
北浜東分室)」……正直、よくわかりません。上述の「大阪
郵便役所」から紀州藩蔵屋敷の在った同地に移転したと
聞きましたが、まだ裏が取れていない状態です。同局の
駐車場内には、「紀州邸址」や「明治天皇聖躅」碑、
「郵便創業百年植樹」などもあるので、それなりの来歴を
持っているのは間違いないでしょうけれど、土佐堀通に
寄って建つ「前島密之像」の唐突感が、何よりも凄くて。
“日本近代郵便の父”、前島密(1835~1919)は、
「郵便」や「郵便切手」等の言葉を造った人でもあります
が、大阪人にとっては、慶応4年(1868)、大阪遷都論を
打ち出していた大久保利通に対して、江戸遷都を建言したことで、引っ掛かるところが
あるお方ですねえ。お地蔵さんではないにせよ、立ち位置(顔の向き)が妙に不自然。
同じような立地、「難波橋」南東角に立つ「五代友厚」像を想起すれば、交差点を睥睨
するかのように颯爽とした五代と対照的に、世の往来に顔を背けているようでもあり…
…「縁の下の力持ち」になる利点は、他人と一々目を合わさずに済むことだと思われ。
参考記事:郵政博物館 ― 郵便ポストの移り変わり
日本郵政 ― 前島密

大阪郵便役所跡」の碑(石柱)が建っています。
左角に建つ「1971 郵便創業100年記念」の
「郵便は世界を結ぶ」と謳っている記念ポストの
方が目立ってはいますが、逆算するところの
1871年=明治4年3月、大阪~京都・東京間で
初の郵便制度が開設され、元は島原藩蔵屋敷の
置かれていた同地に、「書状集箱」、「集信箱」
と呼ばれるポストが置かれたのでありました。
現在のポストと外観が異なり、賽銭箱に雨覆いを
取り付けたような形状でした。明治6年(1873)に大阪郵便役所(一等)、
明治8年(1875)に大阪郵便局(一等)となり、為替を取り扱い始めます。
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その前身が「大阪中央郵便局逓信局内分室(~郵政局
北浜東分室)」……正直、よくわかりません。上述の「大阪
郵便役所」から紀州藩蔵屋敷の在った同地に移転したと
聞きましたが、まだ裏が取れていない状態です。同局の
駐車場内には、「紀州邸址」や「明治天皇聖躅」碑、
「郵便創業百年植樹」などもあるので、それなりの来歴を
持っているのは間違いないでしょうけれど、土佐堀通に
寄って建つ「前島密之像」の唐突感が、何よりも凄くて。
“日本近代郵便の父”、前島密(1835~1919)は、
「郵便」や「郵便切手」等の言葉を造った人でもあります
が、大阪人にとっては、慶応4年(1868)、大阪遷都論を
打ち出していた大久保利通に対して、江戸遷都を建言したことで、引っ掛かるところが
あるお方ですねえ。お地蔵さんではないにせよ、立ち位置(顔の向き)が妙に不自然。
同じような立地、「難波橋」南東角に立つ「五代友厚」像を想起すれば、交差点を睥睨
するかのように颯爽とした五代と対照的に、世の往来に顔を背けているようでもあり…
…「縁の下の力持ち」になる利点は、他人と一々目を合わさずに済むことだと思われ。
参考記事:郵政博物館 ― 郵便ポストの移り変わり
日本郵政 ― 前島密
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