天満宮神幸御上陸地
「天神祭」の船渡御――ですが、なかなかにややこしい。
江戸時代初期(1640年代)に御旅所の位置が固定され、
雑喉場御旅所、後に戎島御旅所(いずれも、現・西区)に
常設されるようになりました。慶応元年(1865)から中断
されていた「天神祭」は、明治4年(1871)6月、6年ぶりの
復興となりますが、戎島付近が外国人居留地(川口)と
なったことから、船渡御は松島仮御旅所まで。ただし、翌
5年で再び中断。経済的不況等により、堂島川の浚渫が
困難だったことが理由のようです。明治8年(1875)10月、
松島花園地に松島新御旅所が造営されました。明治14年
(1881)から昭和12年(1937)まで、松島御旅所までの
船・陸渡御コースを辿ることとなります。松島御旅所まで
全行程を船で行くのではなく、一旦、陸に上がっている
訳で、その場所に「天満宮神幸御上陸地」と刻まれた
石碑が建っていますよ(8月30日撮影分)。「enoco」や
「木村家住宅主屋」から「木津川橋」(~「端建蔵橋」)へ
向かって歩く途中で、目に入りました。“神幸”とは、祭事や
遷宮において、神体がその鎮座する神社から他所へ赴く
ことをいいます。昭和5年(1930)には、江戸時代初期から
途絶えていた鉾流神事も復活。非常時局を経て、昭和24年
(1949)、昭和13年以来の船渡御が再開されるも、同25年
(1950)にはまたもや中止の憂き目。地盤沈下とともに川の
水位が上がり、橋の下を神輿が通れない状態になっていた
のです。そして、昭和28年(1953)からは、大川を上流に
遡って航行するという逆コース(現在の船渡御)に変更されて
しまいました。御旅所で行っていた神事は、御鳳輦奉安船で
行われています。「大阪天満宮行宮」(大阪市西区千代崎
2-21-1)は、松島御旅所周辺に建て直された物件のようです。

江戸時代初期(1640年代)に御旅所の位置が固定され、
雑喉場御旅所、後に戎島御旅所(いずれも、現・西区)に
常設されるようになりました。慶応元年(1865)から中断
されていた「天神祭」は、明治4年(1871)6月、6年ぶりの
復興となりますが、戎島付近が外国人居留地(川口)と
なったことから、船渡御は松島仮御旅所まで。ただし、翌
5年で再び中断。経済的不況等により、堂島川の浚渫が
困難だったことが理由のようです。明治8年(1875)10月、
松島花園地に松島新御旅所が造営されました。明治14年
(1881)から昭和12年(1937)まで、松島御旅所までの
船・陸渡御コースを辿ることとなります。松島御旅所まで
全行程を船で行くのではなく、一旦、陸に上がっている
訳で、その場所に「天満宮神幸御上陸地」と刻まれた
石碑が建っていますよ(8月30日撮影分)。「enoco」や
「木村家住宅主屋」から「木津川橋」(~「端建蔵橋」)へ
向かって歩く途中で、目に入りました。“神幸”とは、祭事や
遷宮において、神体がその鎮座する神社から他所へ赴く
ことをいいます。昭和5年(1930)には、江戸時代初期から
途絶えていた鉾流神事も復活。非常時局を経て、昭和24年
(1949)、昭和13年以来の船渡御が再開されるも、同25年
(1950)にはまたもや中止の憂き目。地盤沈下とともに川の
水位が上がり、橋の下を神輿が通れない状態になっていた
のです。そして、昭和28年(1953)からは、大川を上流に
遡って航行するという逆コース(現在の船渡御)に変更されて
しまいました。御旅所で行っていた神事は、御鳳輦奉安船で
行われています。「大阪天満宮行宮」(大阪市西区千代崎
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