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3分でわかる「淀屋」

 江戸時代初期、中之島や堂島の開発に携わり、デベロッパー型の豪商として抜群の知名度を誇る「淀屋」。淀屋橋や常安橋といった橋や旧町名などで有名ですけれども、初代・淀屋常安の後を継いだ2代・淀屋言當は、青物市を掌握し、雑喉場市を設立するとともに屋敷前で米市を開きました。淀屋橋南詰から三井住友銀行大阪本店辺りまで市は広がっていたそうです。言當の号が个庵(4・5代も个庵を名乗ったので、特に「玄个庵」ともいいます)。言當は大名貸しを行うなど、幅広い事業を手掛け、莫大な財産を築きました。
 しかし、3代・箇斎、4代・重當を経て、宝永2年(1705)、「淀屋辰五郎の闕所処分」を命じられた5代・淀屋廣當が全財産を没収され、所払いとなります。表向きの理由は、倹約令に背き、町人の分限を越える驕奢と謀書、謀判の罪でした。なお、当初の淀屋は断絶しましたが、闕所処分を事前に察知した4代目が、番頭・牧田仁右衛門に暖簾分けを行っており、牧田の国元・倉吉で倉吉淀屋が立ち上げられ、後に大坂で(後期)淀屋として再興しています。
 さて、「淀屋の米市」と称された米市場では、大名から直接委託された米の売買が行われていました。年貢として国元の農民から納められた米を大坂(や江戸のような都心部)に運び入れて売り、換金するというシステムですが、淀屋の米市が開かれていた頃は、蔵屋敷の数も知れており、現物の米俵、実米とお金の遣り取り。米俵は重く、スペースを取る厄介な代物です……そこで、蔵屋敷の説明の折に触れた「米切手」の出番となります。実米の管理を蔵屋敷に任せ、売買取引の場では米切手を使用する。大名の蔵屋敷の数が増えるにつれ、米切手というシステムが浸透。米切手は、幕府正貨に次いで、最も安全な有価証券の地位を占めるようになりました。もう米の現物は必要ありません。開発されたばかりの新地の振興、交通妨害の除去等、他の理由も挙げられましょうが、17世紀末、ちょうど良いタイミングで、「堂島米市場」への移転が実施されました。

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たまに「考える人」、歴史探偵。
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