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堂島米市場

 “蔵屋敷の時代”、米の現物に代わり、米切手が本格的に取引で使用されています。元禄10年(1697)頃、淀屋の米市が開発されて間もない堂島新地の浜に移転。享保15年(1730)には「米将軍」と呼ばれた第8代将軍・徳川吉宗が堂島米市場を公認し、「堂島米会所」の誕生と相成りました。米仲買同士が米切手の売買に加え、先物取引まで行えるようになったのです。
 本来は、実米の裏付けのあった米切手(無い物は「空米切手」と呼ばれました)が金融商品化していきます。米切手を介した現物市場(正米商い)だけでなく、帳簿上だけで売買が記録される架空の米=帳合米の取引を行い、将来的に決済が行われる先物市場(帳合米商い)が自然発生していたようです。1865年(慶応元年)に成立したシカゴ商品取引所から発行された『商品取引便覧』でも、「1730年代に、日本の大阪において先物取引を含む商品取引が存在していたことは驚くべきことである」と称賛されています。
 文化8年(1811)、堂島米市場は最盛期を迎え、発行米切手の市場残高が356万俵余を記録しました。明治2年(1869)には、明治政府から取引を禁止されましたが、同4年(1871)、堂島米会所として再興。その後、堂島米油相庭会所、大阪堂島米商会所、大阪堂島米穀取引所と改組されるも、昭和14年(1939)、米穀配給統制法によって廃止されました。中之島ガーデンブリッジ北詰には、堂島米市場の繁栄の跡を記念して、横江嘉純の彫刻作品「稲に遊ぶ子供」(1953)、安藤忠雄のモニュメント「一粒の光」(2018)等が設置されています。

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たまに「考える人」、歴史探偵。
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