幸延半助(2)
小説家、長谷川幸延の代表作として挙げられるのは、
やはり、『桂春団治』なのか。大阪文学としても、また、
上方落語の名跡を取り上げた作品としても重要な小説
なのですが、“半助豆腐”のエピソードを忘れてはならず。
☆
半助。御承知であろうか。一円のことを円スケといった昔があるから、半助は五十銭かと思われる向きもあろう。五十銭が、半助であった時もある。が、ここにいう半助は、鰻の頭のことである。それも、東京流に、蒸焼(むしやき)にする前に落した、ナマの頭は半助とはいわない。大阪流に、鰻をジカ火にかけ、タレをつけて焼き上げた上、その頭を切り落す。それが半助である。首には、身も沢山ある。
この半助を、焼豆腐と共に土鍋で焚く。これこそ、大阪庶民の惣菜として、ローカルカラーを極度に味わすものの一つである。庶民とはかぎらず、大阪の食通の間にも、これは値安(ねやす)に拘泥せず、立派に一つの、誇るべき食物である。
春団治も、これを愛した。三人の女房、三代にわたって
「ほれ。半助買うて来たぞ」
力松か、弟子を走らして買って来た半助の竹の皮包みを、ポイと抛り出すと、妻は焼豆腐だけ買って来ておけば、火加減、味つけ一切自分でやり、小鍋立てでジワジワ煮ながら食べるのである。酒によし、飯によし
「半助にかぎる……」
と悦に入った。弟子たちにも
「吝嗇(しまつ)で半助食うのやない。下手(へた)な蒲焼なんかより、半助のほうがどれだけ旨(うま)いかわからん」
と、つねにいった。
この半助で春団治はひどい目に遭ったことがある。ある、春の夜であった。その日も春団治は一包みの半助を用意していた。そこへ大宝寺町の鳥江はんから
「赤玉(あかだま)へ行こう」
赤玉は道頓堀にあり、当時大阪一の大キャバレーであった。下地は好きなり御意はよし、で、さっそく出かけた。が、半助は忘れなかった。ちりめんの帛紗(ふくさ)に包み、さも大切なもののように持って行った。客は、キャバレーで落語をやらせようというのではない。話相手だし、人気者(にんきもん)をつれていくのが女給たちへの見栄(みえ)でもある。また、春団治はそうした時のやりとりが実に巧く、ちょっとした幇間(ほうかん)など、足許へもよれないくらいであった。
その夜のお大尽(だいじん)は、いい心持ちになり、のみ直そう、とばかり宗衛門(そうえもん)町へくり込み、富田屋(とんだや)へ上がった。名にしおう宗街(そうがい)一のお茶屋である。春団治は、ちょっと半助を気にしたが、女中(なかい)に
「大事なもんや」
といってあずけた。女中は、うやうやしく床脇(とこわき)の棚においた。
その夜は、感興、主従の間に大いに湧いたか、春団治も前後不覚に酔い、どうして自分の家へ帰ったかもわからなかった。翌る朝、寝床の中で、うつらうつらと昨夜の面白さを反芻していたが、ふっと
「あ、しもた」
思わず、飛び上がるほど、驚いた。
帛紗包みの半助を、場所もあろうに、富田屋の床脇へ忘れて来たのである。春団治ともあろう者が、半助を、しかも床脇に忘れるとは……。
(あの女中が、大事にしすぎて、違い棚においたから忘れたんや……)
大事にしろといったのは自分である。春団治も、まさか受け取りにもやれないと、大いに困った。が
(帛紗をあけて見て、半助やとわかったら、捨ててくれるやろ)
と、そのまま忘れるともなく、夜の紅梅亭へ出かけた。
やがて高座も滞(とどこお)りなくすまし、拍手の中に楽屋へ入って来た。すると、弟子の福団治が見覚えある帛紗包みを、それも昨夜よりうんと大きな包みになって
「師匠。これを富田屋はんから、春団治さんに、というて持って来ました」
「何」
春団治が、あわてて開いた帛紗には、菱富(ひしとみ)(当時、宗衛門町にあり、まず大阪第一)の鰻の蒲焼きを三人前ほど塗箱に入れ、ほかに、竹の皮包みの半助が三、四人前そえてあった。
「…………」
春団治は、唸った。春団治ほどの芸人が、半助を持ち歩いているか。さあ、蒲焼をどうぞ――という、富田屋の皮肉な洒落である。が、春団治にとっては、冷汗三斗というところである。
もとより半助より、蒲焼が旨いにきまっている。しかも、菱富の焼立てで、まだ手に温かい。まさに、垂涎に価した。が、春団治は生唾をぐっとのみこんで
「おい、皆でこの蒲焼、御馳走になれ」
「エッ」
弟子たちは、思いがけない御馳走に、食べない先に舌鼓を打ちながら
「師匠は」
「わしか。わしは、蒲焼より半助のほうが好きじゃ」
いつもそういいながら、蒲焼のほうへ手を出せず、春団治は、唾と涙をのんで、半助の竹の皮包みを、右手で振りながらさびしく笑った。
参考文献:長谷川幸延 『小説 桂春団治』(たちばな出版)
やはり、『桂春団治』なのか。大阪文学としても、また、
上方落語の名跡を取り上げた作品としても重要な小説
なのですが、“半助豆腐”のエピソードを忘れてはならず。
☆
半助。御承知であろうか。一円のことを円スケといった昔があるから、半助は五十銭かと思われる向きもあろう。五十銭が、半助であった時もある。が、ここにいう半助は、鰻の頭のことである。それも、東京流に、蒸焼(むしやき)にする前に落した、ナマの頭は半助とはいわない。大阪流に、鰻をジカ火にかけ、タレをつけて焼き上げた上、その頭を切り落す。それが半助である。首には、身も沢山ある。
この半助を、焼豆腐と共に土鍋で焚く。これこそ、大阪庶民の惣菜として、ローカルカラーを極度に味わすものの一つである。庶民とはかぎらず、大阪の食通の間にも、これは値安(ねやす)に拘泥せず、立派に一つの、誇るべき食物である。
春団治も、これを愛した。三人の女房、三代にわたって
「ほれ。半助買うて来たぞ」
力松か、弟子を走らして買って来た半助の竹の皮包みを、ポイと抛り出すと、妻は焼豆腐だけ買って来ておけば、火加減、味つけ一切自分でやり、小鍋立てでジワジワ煮ながら食べるのである。酒によし、飯によし
「半助にかぎる……」
と悦に入った。弟子たちにも
「吝嗇(しまつ)で半助食うのやない。下手(へた)な蒲焼なんかより、半助のほうがどれだけ旨(うま)いかわからん」
と、つねにいった。
この半助で春団治はひどい目に遭ったことがある。ある、春の夜であった。その日も春団治は一包みの半助を用意していた。そこへ大宝寺町の鳥江はんから
「赤玉(あかだま)へ行こう」
赤玉は道頓堀にあり、当時大阪一の大キャバレーであった。下地は好きなり御意はよし、で、さっそく出かけた。が、半助は忘れなかった。ちりめんの帛紗(ふくさ)に包み、さも大切なもののように持って行った。客は、キャバレーで落語をやらせようというのではない。話相手だし、人気者(にんきもん)をつれていくのが女給たちへの見栄(みえ)でもある。また、春団治はそうした時のやりとりが実に巧く、ちょっとした幇間(ほうかん)など、足許へもよれないくらいであった。
その夜のお大尽(だいじん)は、いい心持ちになり、のみ直そう、とばかり宗衛門(そうえもん)町へくり込み、富田屋(とんだや)へ上がった。名にしおう宗街(そうがい)一のお茶屋である。春団治は、ちょっと半助を気にしたが、女中(なかい)に
「大事なもんや」
といってあずけた。女中は、うやうやしく床脇(とこわき)の棚においた。
その夜は、感興、主従の間に大いに湧いたか、春団治も前後不覚に酔い、どうして自分の家へ帰ったかもわからなかった。翌る朝、寝床の中で、うつらうつらと昨夜の面白さを反芻していたが、ふっと
「あ、しもた」
思わず、飛び上がるほど、驚いた。
帛紗包みの半助を、場所もあろうに、富田屋の床脇へ忘れて来たのである。春団治ともあろう者が、半助を、しかも床脇に忘れるとは……。
(あの女中が、大事にしすぎて、違い棚においたから忘れたんや……)
大事にしろといったのは自分である。春団治も、まさか受け取りにもやれないと、大いに困った。が
(帛紗をあけて見て、半助やとわかったら、捨ててくれるやろ)
と、そのまま忘れるともなく、夜の紅梅亭へ出かけた。
やがて高座も滞(とどこお)りなくすまし、拍手の中に楽屋へ入って来た。すると、弟子の福団治が見覚えある帛紗包みを、それも昨夜よりうんと大きな包みになって
「師匠。これを富田屋はんから、春団治さんに、というて持って来ました」
「何」
春団治が、あわてて開いた帛紗には、菱富(ひしとみ)(当時、宗衛門町にあり、まず大阪第一)の鰻の蒲焼きを三人前ほど塗箱に入れ、ほかに、竹の皮包みの半助が三、四人前そえてあった。
「…………」
春団治は、唸った。春団治ほどの芸人が、半助を持ち歩いているか。さあ、蒲焼をどうぞ――という、富田屋の皮肉な洒落である。が、春団治にとっては、冷汗三斗というところである。
もとより半助より、蒲焼が旨いにきまっている。しかも、菱富の焼立てで、まだ手に温かい。まさに、垂涎に価した。が、春団治は生唾をぐっとのみこんで
「おい、皆でこの蒲焼、御馳走になれ」
「エッ」
弟子たちは、思いがけない御馳走に、食べない先に舌鼓を打ちながら
「師匠は」
「わしか。わしは、蒲焼より半助のほうが好きじゃ」
いつもそういいながら、蒲焼のほうへ手を出せず、春団治は、唾と涙をのんで、半助の竹の皮包みを、右手で振りながらさびしく笑った。
参考文献:長谷川幸延 『小説 桂春団治』(たちばな出版)
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