八反田地蔵尊
前日は街道巡りの後、夜勤シフトが入っていました。
朝8時まで業務をこなしつつ、頭の中は大坂の街道を
駆け巡り……大阪市阿倍野区天王寺町南2丁目の
高松交差点の角。アルミサッシの窓が嵌め込まれた
大きな地蔵堂に「八反田一願地蔵菩薩」、右側には
「大慈悲阿弥陀如来」とも書かれており、どっちやねん?
両方、正解です。左脇に1体、センターに本尊である
オリジナルの「八反田地蔵尊」が祀られていました。
江戸時代、東成郡天王寺村で開発された新田(八反田)に
置かれていた地蔵尊が、石堂に再建されたのは元治元年
(1864)。石工の小西屋喜兵衛の手によるのでしょうか。
その後、昭和62年(1987)秋、仏教学者(?!)の鑑定の
結果、地蔵菩薩ではなく、阿弥陀如来であったことが
判明。翌63年(1988)2月には、新しく「八反田地蔵尊」が
造られ、開眼供養が営まれたそうです。つまり、地蔵堂
内に、新・地蔵尊と、旧・地蔵尊(実は阿弥陀如来)が
仲良く並んで立っているのでした。単なる剃髪でなく、
肉髻が明らかなので、何故に阿弥陀を地蔵と呼び習わして
きたのか? 逆に、その経緯が謎に思われるところ……
ぼくの近所の「沖向地蔵尊」も、地蔵を中尊にして、脇を
阿弥陀如来と勢至菩薩が務める不思議な三尊像ですが。

朝8時まで業務をこなしつつ、頭の中は大坂の街道を
駆け巡り……大阪市阿倍野区天王寺町南2丁目の
高松交差点の角。アルミサッシの窓が嵌め込まれた
大きな地蔵堂に「八反田一願地蔵菩薩」、右側には
「大慈悲阿弥陀如来」とも書かれており、どっちやねん?
両方、正解です。左脇に1体、センターに本尊である
オリジナルの「八反田地蔵尊」が祀られていました。
江戸時代、東成郡天王寺村で開発された新田(八反田)に
置かれていた地蔵尊が、石堂に再建されたのは元治元年
(1864)。石工の小西屋喜兵衛の手によるのでしょうか。
その後、昭和62年(1987)秋、仏教学者(?!)の鑑定の
結果、地蔵菩薩ではなく、阿弥陀如来であったことが
判明。翌63年(1988)2月には、新しく「八反田地蔵尊」が
造られ、開眼供養が営まれたそうです。つまり、地蔵堂
内に、新・地蔵尊と、旧・地蔵尊(実は阿弥陀如来)が
仲良く並んで立っているのでした。単なる剃髪でなく、
肉髻が明らかなので、何故に阿弥陀を地蔵と呼び習わして
きたのか? 逆に、その経緯が謎に思われるところ……
ぼくの近所の「沖向地蔵尊」も、地蔵を中尊にして、脇を
阿弥陀如来と勢至菩薩が務める不思議な三尊像ですが。
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tag : 仏像