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あだしが原

2023_04_21_「曽根崎心中」 4月21日(金)18時30分、「国立文楽劇場
 での「4月文楽公演」(第170回)第3部を
 鑑賞にお出掛け。文楽協会創立60周年記念
 もありますが、近松門左衛門(1653~1724)
 300回忌の記念公演ともなります。しかし、
 日中は「北区ぶらぶら 2023」第1回の下見等
 (後述)もあって、若干ふらふらの状態。たこ
 焼き
えびす」日本橋店に駆け込み、腹拵えの
 後、「曽根崎心中」生玉社前の段/天満屋の
段/天神森の段に臨みました。天満屋での豊竹呂勢太夫の美声に聴き惚れ、目を
休ませるために、人形を観るのは要所要所にしようと計算していたらば、ついつい、
意識が飛んでしまっている瞬間があったように思います。勿体ないとは考えず、ただ
リラックス。天満屋お初を遣う桐竹勘十郎に対して、手代徳兵衛は吉田玉助でした。
油屋九平治からの侮辱だの、悪口だの、全く記憶に無くて、お初・徳兵衛の滅び行く
姿だけに見入っていました……「一足づつに消えて行く、夢の夢こそ哀れなれ 」。

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テーマ : 伝統芸能
ジャンル : 学問・文化・芸術

tag : 文楽

720°

梅田スカイビル」の西側に、「大阪医専」(大阪市北区2023_03_31_「Disclination of 720°」
大淀中1−10−3)が建っています。医療・福祉系専門
学校である同校は、平成12年(2000)4月に大阪府から
認可を受けて設立されました。建物は旧「コンピュータ
総合学園HAL大阪校
」から譲り受けた物件でして、共に
学校法人「日本教育財団」のグループ校であります。
昭和61年(1986)3月、大淀中の新校舎(当時)に移転した
「コンピュータ総合学園HAL」は、平成11年(1999)3月、
大阪駅西の現在地(大阪市北区梅田3−3−1)に在る
(「大阪モード学園」と合体しての)新校舎に移転。さらに
平成20年(2008)4月、校名が現「HAL大阪」へと変更
されています――この事実を確かめるまでは、「大阪医専」
ピロティに設置された 多数の人体模型から成る奇っ怪な
オブジェを、解剖学的な嗜好と片付けていたのですが、
昭和60年(1985)「コンピュータ総合学園HAL」名古屋
校舎
に設置された物と同じ彫刻作品なのでした。「コンピュータ総合学園HAL」
大阪校舎に設置された彫刻(1986)が、そのまま「大阪医専」に残された訳です。
作者は後藤良二、昭和26年(1951)1月27日、北海道名寄市に生まれています。
Disclination of 720°」(H520×W631×D700cm)の素材は鉄、FRP、塗料。
「ディスクリネーション」を訳すと、専門用語で「回位」、「転傾」?! 化学分野では、
分子に含まれる構造欠陥を意味するそうです。彫刻に寄せて指摘すると、手と足で
つながり合った構造体は一見、全て男性の人体から成っているようなのですけれども、
中心付近に1体だけ、女性像が混じっていまして、そこから、ひずみが生じるかな? 
大阪の「ディスクリネーション」はいつでも観て愉しめるからよいとして、かつての
「コンピュータ総合学園HAL」名古屋校舎に入っている「駿台予備学校名古屋校
(名古屋市中村区名駅南1−28−14)の方は、Google マップ(ストリートビュー)で
探ってみても、名古屋の「ディスクリネーション」が見当たらないのよねえ……。
HAL名古屋」と共に「モード学園スパイラルタワーズ」に移ったとも聞かないし。

テーマ : 美術館・博物館 展示めぐり。
ジャンル : 学問・文化・芸術

tag : 美術建築

下高野街道(2)

4月19日(水)、歴史街道ウォーク「下高野街道(2)」に参加。
Osaka Metro・谷町線の田辺駅を10時出発の予定ですが、
ぼくは9時過ぎ、近鉄・南大阪線の北田辺駅に到着。実は
駅スタンプを押そうと企んでいたものの、設置しておらず。
残念がりつつ、「庚申街道」を歩き、「南地蔵尊」等をチェック
しながら、集合場所に10分前、顔を見せることとなりました。
       ☆
2023_04_19_法楽寺 街道跡を律儀に辿るという雰囲気でなく、古街道
 周辺の史跡を見物して回るという和やかなムード
 です。途中、断続的に雨に見舞われたこと以外、
 (タイム・オーバーも含め)全て想定内でしょうか。
 田辺駅から一旦西へ向かい、「うどんや風一夜
 薬
」に立ち寄り、隣の「神馬塚」も見物。下高野
 街道
はどこに行ったか、難波大道といわれる
 道の跡を南下して行きます。雨に見舞われながら
 も、「法楽寺」や「山阪神社」の境内に入って
時間を費やしました(社務所に人が立ち働いていることを確認)。左上画像は「法楽寺」
三重宝塔に置かれていたの形をした木魚。「開梆」は魚ですが、鶏タイプもあるのか。
       ☆
その後、「南田辺本通商店街」を南下し、南港通を東進。東住吉区役所前交差点も
過ぎ、駒川に架かる「都橋」を渡りました。近鉄・南大阪線を潜り、Osaka Metro・
谷町線の駒川中野駅の位置を確認してから、中野村の環濠跡を探る感じで、足を
踏み入れ。「仏願寺」南隣の「中井神社」は、渡来系氏族・田辺氏が祖先神を祀った
田辺東神”と『三代実録』(901)には記され、対する“田辺西神”が「山阪神社」で
ありました。南海鉄道・平野線(廃線)の石標に目を凝らし、今なお現役の「中野
鍼灸院
」に感嘆の声を上げ、「駒川商店街」に直結した近鉄・針中野駅で解散。
ただし、ぼくは独りで逆コースを辿ります。まずは、駒川に架かる橋を(一部)撮影
しながら北上していますが、「山阪神社」と「法楽寺」にて、御朱印も頂けましたよ。
(“田辺不動尊”以外にも、ネタが満載の「法楽寺」は、いずれ再訪したくもあり……)
谷町線の田辺駅から乗車。帰途に就いているようでいて、谷町四丁目で途中下車。
大阪歴史博物館」に立ち寄り、ショップに直行し、必要な資料集を入手しています。

参考記事:大阪市東住吉区 ― 下高野街道
       同 ― 中野村の環濠

テーマ : 仏教・佛教
ジャンル : 学問・文化・芸術

tag : 仏像史跡

単独下見

2023_04_18_了徳院_水掛不動 前回、単独で行ったガイド(2023年度・第1回)の
 下見が“逆打ち”だったので、今回はノーマルに
 (やっぱり、独りで)。「うめきた広場」を出発して、
 うめきた2期地区(グラングリーン大阪)の開発
 状況を横目で睨みながら、観光客の姿が目立ち
 始めた「梅田スカイビル」前を通過。「大阪医専
 絡みの件は後日。工業学校表通線を西へ進み、
 「大淀南公園」を斜めに横切ると、大淀中学校南
 交差点で、なにわ筋を横断しました。北浦江通を
下り、大淀南交番前交差点で、あみだ池筋を横断。「(大仁八阪神社」(大阪市北区
大淀中3-1-23)に詣でるも、やはり、釈然としない思いが残ります。王仁が登場する
と、収拾がつかなくなってしまいますから。「勝楽寺」(大阪市北区大淀中4-5-12)へ
赴き、暁鐘成(1793~1861)の墓所に詣でて、クール・ダウン。戒名は釈道観。彼の
生き様や作品は気に入っています。天文学愛好者ならば、間重富(1756~1816)に
連なる羽間一家の墓も見逃せないでしょう。「浦江公園」奥の「素戔嗚尊神社浦江
八坂神社
)」(大阪市北区大淀南3−3−25)で御朱印を頂くのを忘れず。ここにも「王仁
神社
」が在るんですよねえ。「妙壽寺」(大阪市福島区鷺洲2−15−10)にお邪魔して、
了徳院浦江聖天)」(大阪市福島区鷺洲2-14)に参詣。“のだふじ巡り”(4月
8~22日)は、ぎりぎり間に合いましたか。いつも、本番日は藤の花が散っているのが
遣る瀬なく。「了徳院」住職に御朱印を請いつつ、山門についての貴重な情報を頂き
ました……夜間の参詣を計画しなければ。左上の画像は、良い味を出している水掛
不動。不動明王の真言は覚えましたが、歓喜天は「おん きりく ぎゃく うん そわか」。
       ☆
福島駅周辺の浄正新道、ふくまる通りを流した後、JR東西線・新福島駅から大阪
天満宮へ移動を図り(駅スタンプも、改札外の福島駅から押しています)。「ココペリ
カレー
」に上がり、3種3TOP盛(2,300円)を頂きました。定番コースのような流れで、
天牛書店」天神橋店でお買い物。松嶋雅人『あやしい美人画』の頁を捲ったがため、
遂に足を運べなかった京都国立近代美術館・開館60周年記念「甲斐荘(かいのしょう)
樟音
(ただおと)の全貌」展(~4月9日)のことが思い出され……自業自得ではあります。

テーマ : 仏教・佛教
ジャンル : 学問・文化・芸術

tag : 仏像史跡樹木カレー美術

%username%

デジタル・ネイティヴであろうがなかろうが、
その程度のPC操作も出来ないのか……
暗然とさせられる事態がしばしば出来するの
ですけれど、他人の学習能力に期待しても
時間の浪費でしかなく、バッチ・ファイルを
作成することにしてみます。ダブル・クリック
のみで、所定のフォルダを開かせるという
至極シンプルなコマンドなのですが、複数の
PCを不特定ユーザーが使用する環境下、
ログオンユーザーの個人ファイルを特定する
行で、しばし停滞してしまいました。ローカル
PCにログイン時、パスワードは入力している
訳だから、該当ユーザーのみが自分の個人
フォルダを開く(他人がログオンしているデスク
トップを触ったら駄目)と規定。個人フォルダを
ユーザー名にして、「%username%」と記述
すればよいのだな。username 単体はコマンド。

テーマ : つぶやき
ジャンル : 日記

tag : つぶやき

簡易書留

前日(15日)に不在連絡票が投げ込まれていた
簡易書留(保険証在中)を、出勤前に受け取る
ことが出来ました。在宅時間内に配達人が来て
くれるか、わからないので、結構難儀しています。
家のドア・ブザー(チャイム)も鳴りませんからね。
身分証明書相当の物が届けば、「TSUTAYA」で
Tポイント」カードを再発行できます(未来日記)。
急ぎではない国立文楽劇場 友の会」会員証
Osaka Point」カードの再発行(紐付け)手続きも
進めていきますが、フィジカルなカード自体は、会員
(登録)番号を思い出させてくれるだけの役割でして、
あっても無くても、特に困らないのよ、正味のところ。
(IDやパスワードを保存している相棒さえいれば……)

テーマ : つぶやき
ジャンル : 日記

tag : つぶやきモバイル

しゃぶギョプサル

常にも増して、人形浄瑠璃文楽を堪能した感を濃く
して、大阪・日本橋を離れますと、Osaka Metroを
乗り継いで、東梅田へ帰りました。18時半、仕事を
終えた相方と待ち合わせ、阪急東通商店街周辺を
流します。「ニカイノ金色バンビ」に対しては、相方が
抵抗感を示したので見送った後、島豚にこだわった
しゃぶしゃぶ屋さん
一豚堂山店(大阪市北区
堂山町16-5)に上がりました。3種類以上の島豚が
用意されており、迷いましたが、2時間食べ放題の
しゃぶギョプサル”コース(5,500円)をチョイス。
サムギョプサルの焼き肉を豚しゃぶに置き換えた物
と考えればOK。美味しいんですけれども、レタスや
サンチュ(チシャ菜)で包んで頂く際に、タレが零れて
くるのが難ですかねえ。変則的(変わり鍋)ですが、
こっそり、「鍋プログラム(33)」に計上しておきます。

テーマ : ご当地グルメ
ジャンル : グルメ

tag :

妹山背山

妹背山婦女庭訓_1 4月14日(金)、「国立文楽妹背山婦女庭訓_2
 劇場」での「4月文楽公演
 (第170回)を鑑賞に出掛け
 ました。文楽協会創立60
 周年記念
とあって、「妹背山
 婦女
(おんな)庭訓」が通し
 狂言
で上演されるのです。
 4月公演だけでは終わらない
 のですが、楽しみで、楽しみで
 ならず。第1部は初段の大序・
 大内の段/小松原の段/
 蝦夷子(えみじ)館の段。25分
休憩の後、二段目の猿沢池の段/鹿殺しの段/掛乞(かけごい)の段/万歳の段/芝六
忠義の段――で幕。通して、出遣いという訳ではないので、出遣いの段に来ると、ぐっと
盛り上がります。久我之助(こがのすけ)吉田玉佳、雛鳥は吉田一輔が主遣い。ぼくの
応援している吉田玉勢は宮越玄蕃、吉田玉志は蘇我入鹿……どちらもヒールだなあ。
近松半二が立作者となる この演目、江戸時代の風俗、価値観が混入していますし、
史実的にはどうにもならない代物に見えますけれども、そこに目を瞑れば、固唾を呑む
しかない(三段目まで続く)えげつない物語が進行していきます。雪見の宴を行う蘇我
蝦夷子の館で、蝦夷子を上回る大ヒール・入鹿の登場シーンは格好良過ぎました。
荒巻弥藤次を遣っていた桐竹紋秀が、笑いを堪えていましたが、何に反応したのかな。
       ☆
14時30分頃に第1部が終演。劇場内で弁当が販売されたり、ロビーでの食事が賑わう
など、新型コロナウイルス感染症の終息も間も無いのでしょう。久しぶりに「マイティ・
ルゥ
」へ足を運ぶも、14時半がラスト・オーダーだったようで、ランチ営業終了。劇場へ
戻り、「文楽銘菓」の「白太夫」、「弥陀六」、「団七」を買い求め、1個を摘まみました。
15時開演の第2部は、「妹背山婦女庭訓」三段目の太宰館の段/妹山背山の段。
大序では、御簾の内で太夫と三味線が次々と入れ替わりながらの演奏でしたが、
山の段では、上手だけでなく、下手にも出語り床が設けられています。“妹背山”と
一口に申しましても、実は吉野川で分かたれ、舞台も大和国(下手)の妹山、紀伊国
(上手)の背山に二分されるのです。上手では、大判事を豊竹呂太夫、久我之助を
竹本織太夫、下手で、定高(さだか)竹本錣太夫、雛鳥を豊竹呂勢太夫が語るという
何とも贅沢な布陣(織太夫は、第1部の万歳の段において、療養中の豊竹咲太夫の
代役も務めていました)。人形役割では、大判事清澄が吉田玉男、後室定高が吉田
和生
。久我之助と雛鳥の悲恋は、“ロミオとジュリエット”に例えられたりもしますが…
…いえいえ、親の手で首を切られたり、切腹の介錯をされたりした挙げ句、生首を
並べての女雛男雛
ですから。グロテスクにも程があります。江戸時代の観客も、
多分に、ホラー感覚を愉しんでいたはずと睨んでいます。忠義だ、何だと言いつつ、
唯の“看板”ではなかったのでしょうか? ともあれ、花見も碌に行けなかった今春、
舞台上で吉野川両岸の妹山・背山に咲き誇る桜を観ることが出来て、何よりでした。

テーマ : 伝統芸能
ジャンル : 学問・文化・芸術

tag : 文楽

林市蔵の視線

2023_04_04_渡辺義知「林市蔵先生記念像」 土佐堀川沿い、「淀屋橋」南詰の西側に「淀屋の碑」が
 据えられており、そのすぐ西側に“方面委員・民生委員
 始祖 林市蔵先生肖像
”の石柱と共に、「林市蔵先生
 記念像
」が設置されています。大阪府民生委員一同に
 より、昭和28年(1947)秋に建てられ、渡辺義知(1889
 ~1963)の制作。加えて、平成30年(2018)5月には、
 「民生委員制度百周年記念碑」も建てられていますが、
 逆算しますと、大正7年(1918)に民生委員が設けられた
 訳です。林市蔵(1867~1952)は大正6年(1917)、
 山口県知事から大阪府知事に異動。翌年(1918)、知事
 顧問の小河滋次郎と共に、方面委員(民生委員の前身)
 制度を創設し、府に救済課を設置しました。大正7年は
 シベリア出兵や富山県の米騒動で記憶されるばかりか、
 同年から1920年にかけて、全世界的にスペイン風邪が
 流行し、罹患した辰野金吾(1854~1919)も亡くなって
います。同じ頃(1920)、佐伯祐三の兄、「光徳寺」住職の佐伯祐正がセツルメント
(隣保事業)「光徳寺善隣館」を開所したのも、そういった社会的な動向を踏まえての
ことでありましょう。ぼくが気になったのは、それよりも何よりも、林市蔵(先生)の銅像は
何故に腰掛け、何に視線を落としているのか?
 どうして、そのようなポーズを取って
いるのか?という造形的な問題は、当時の人口に膾炙していた有名なエピソードに
準拠していた訳ですけれども、現代では、説明文抜きだと、全く理解しづらい状況です。
       ☆
大正七年 世界大戦の直後 物価奔騰して民衆の苦難甚しく 米騒動勃発して 世相不安を極めた
時の大阪府知事 林市蔵先生
(たまたま)ここ淀屋橋畔の調髪所において鏡面に映る新聞賣母子の憐むべき姿と家庭の窮状に深く心を打たれ これが社会的対策の極めて緊切なるを痛感し 府嘱託小河滋次郎博士の調査研究と慎重考慮の結果 府下に方面委員を設置せられた
これ我國における民生委員制度の嚆矢であり 爾来急速に発達して全國に普及され 社會事業推進の中核をなすに至つた
しかも此の間 林先生には終始一貫熱誠を傾けて 本制度の育成發達に努力せられたが 昭和二十七年二月二十一日 その偉業を遺して逝去せられた
我等府下五千名の民生委員は深く先生の高徳を慕い その功績を讃仰すると共に 民生委員事業今後の發展に資すべく ここに本制度發祥の地に 先生の記念像を建設し これを不朽に傳えんとする
            大阪府知事赤間文三撰並びに書

       ☆
つまり、渡辺義知・制作の銅像は、調髪所(理容室)の席に腰掛けていた折、鏡面に
映る 貧しい新聞売りの親子に眼を留めた瞬間の林市蔵――という設定。和服は市蔵の
普段着なのであります。昭和19年(1944)「方面委員制度ノ由緒」によれば、理髪店
モーラー館」にて、哀れな夕刊売りの母子を見かけたことが、方面委員制度“発祥”の
瞬間と見なされているのですけれど……ただ、歴史的事実としては、大正7年10月9日、
理髪店で夕刊売りの母子の窮状を目撃したことが、制度の着想の契機となるなどとは
あり得ず(2日前に「方面委員規定」交付済み)、時間的な継起としては逆になります。
方面委員制度を発足させたばかりの市蔵の目に、最初の取り扱いケースとなる夕刊
売りの母子の姿が入って来た――という風に考えれば、誰も傷付けずに済みますか。

参考文献:碓井隆次「淀屋橋畔の林市藏先生記念像 : 大阪府方面委員制度の由緒」

テーマ : 史跡
ジャンル : 学問・文化・芸術

tag : 史跡

大仏炎上

風太郎忍法帖の第11作 『伊賀忍法帖』なんぞを
読んでいます。忍法小説で日本史を学び直すのも
一興ではありませんか。伊賀忍者・笛吹城太郎を
主人公にして、服部半蔵、柳生新左衛門(石舟斎)、
上泉伊勢守信綱、果心居士を配し、7人の根来
と城太郎の闘いが描かれます。根来僧を操るのは
松永弾正久秀ですけれど、冒頭に千宗易(利休)を
持ってくるのが憎い。何より、舞台設定が懐かしく
(「朝護孫子寺」ばかりか、「東大寺」大仏殿も登場)。
       ☆
(松永弾正は)野卑厚顔なところがあるかと思うと、一方で美に対して凄味をおびた感性がある。それは天守閣の創案者であったことにあらわれているが、その孫に有名な連歌師(れんがし)松永貞徳が出ていることでも、彼の血のなかに一種の奇怪な芸術家が棲(す)んでいたことがわかる。
       ☆
 伊賀の首領、服部半蔵であった。
 服部家はふるくは平氏の一門で、源平時代から伊賀国服部郷を領する豪族であった。代々、しだいに勢力をひろげ、今では伊賀一円、北の甲賀までの谷々を統
(す)べる一族となっている。
       ☆
 現在 信貴山にある歓喜院(かんぎいん)朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)は、いにしえの聖徳太子が創立されたそのものではなく、これがいちど滅び失せ、そのあとに松永弾正信貴山城を築き、さらにこれが滅び失せたあと、豊臣秀頼が再建したものであるが、ここを訪れる人はふかい山中に忽然としてあらわれる竜宮のような大寺院に眼を見張り、かつ断崖と巨石をつらねる大伽藍の大奇観におどろかざるを得ない。

参考文献:山田風太郎『伊賀忍法帖』(講談社文庫)

テーマ : 読書記録
ジャンル : 小説・文学

tag : 小説仏像

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ぽか

Author:ぽか
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歌わない詩人、喰えない物書き。
たまに「考える人」、歴史探偵。
フードビジネス・コンサルタント
(自称)。
好きな言葉は「ごちそうさま」。

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