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隠元禅師登岸之地

宇治川に架かる「隠元橋」を見ておこうと、「萬福寺」から2023_04_01_黄檗開山隠元禅師登岸之地
JR奈良線、京阪・宇治線を越え、西へ向かって歩きました。
途中、寄り道した所の話は後日。狭い道路脇は危ないな。
ようやく、「隠元橋」が見えて来た頃、謎の石柱も目に
留まりました。2008年3月27日に竣工した「黄檗開山
隠元禅師登岸之地
」の記念碑です。説明板(石碑)から
書き起こしてみましょう(2羽の鶴や亀についても言及)。
       ☆
 万治二年(一六五九)、将軍・家綱公から寺領を賜ることとなった隠元禅師が、新寺の候補地探しのため船で宇治川を遡られこの付近に来られた際、東方の山(妙高峰)裾からニ羽の鶴が舞い立つのを見られ、縁起良しとして下船され、萬福寺の建立地を決定されたとのことです。
 建設予定地の風景は、渡日直前まで住持をされていた中国福建省・黄檗山とよく似、また日本に滞留しても故郷を忘れないようにとの思いから、新寺の名称を同名の黄檗山萬福寺と名付けられました。
 この石碑は、禅師の偉業を称えるため、禅師出身地から石材を取り寄せ、中国古来の伝統形式である亀趺
(きふ)の形に仕上げ製作したものです。
          黄檗宗大本山黄檗山萬福寺

       ☆
すぐ左側には、「岡屋の津」の石碑も在り、同時期
(平成20年3月)、宇治市も説明板を設置しています。
       ☆
 宇治川に接したこの辺りには、かつて岡屋の津という港がありました。巨椋池(おぐらいけ)をのぞむこの地は、古くから交通の要衝として栄え、鎌倉時代には近衛(このえ)兼経(かねつね)がここに別荘を営みました。やがて、この地域は近衛家の所領となります。人々の往来や物資の流通がひんぱんになりますと、岡屋の津の役割はますます重要になるとともに、近衛家によってさかんに利用されたことから「御殿(ごてん)の浜」とも呼ばれました。
 江戸時代のはじめ、中国僧の隠元黄檗山萬福寺を開きます。この岡屋の浜でも、創建時には大量の建設資材が荷揚げされ、多くの人々で賑わいました。その後 「隠元禅師登岸之地」の呼び名も加わり、近代には蒸気船によって日常品など多くの物資がここに運ばれてきました。
 昭和24年(1949)4月、初めて木造の橋が架けられ、隠元の渡
(わたし)にちなんで隠元橋と名づけられました。昭和28年(1953)8月の水害で流出しますが、31年には鉄筋コンクリート製で架けなおされました。
 平成の隠元橋は、上流の宇治橋、下流の観月橋とともに、より強い絆と高い機能でもって宇治川の両岸を結び、渡す役割を担うことでしょう。
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テーマ : 仏教・佛教
ジャンル : 学問・文化・芸術

tag : 史跡

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たまに「考える人」、歴史探偵。
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