許波多神社(五ヶ庄)
「許波多神社」について、Wikipediaで
調べた限り、同じ京都府宇治市内でも
木幡と五ヶ庄の2地区に在るようです。
足を踏み入れ、御朱印も頂いたのは
当然、五ヶ庄の「許波多神社」(京都府
宇治市五ヶ庄古川13)の方です。共に
式内大社(正一位・柳大明神)を名乗り、
旧社格は郷社。主祭神は天忍穂耳尊
(あめのおしほみみのみこと)、五ヶ庄では
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、神日本(かんやまと)磐余彦尊(いわれびこのみこと)(=神武天皇)
を加えて、三座としています。同じ大化元年(645)ですが、木幡では皇極天皇の名が
引き合いに出されるのに対し、五ヶ庄では右大臣・蘇我倉山田石川麻呂の奏上を
聞き入れた孝徳天皇が、皇祖を祀るため、中臣(藤原)鎌足に命じ、山背国菟道郡
(うじぐん)許畑(こはた)の柳山に造営させたとの社伝。壬申の乱(672)に際して、大海人
皇子(天武天皇)が戦勝を祈願し、社前に突き立てた柳の枝が後に芽吹いて繁茂した
という霊験から、「柳山(柳大明神)」の名が付いたそうです。さらに、征夷大将軍・
坂上田村麻呂も東征(791)に当たって、武運を祈願し、大功を挙げたとのこと。
神武東征、壬申の乱、蝦夷征伐……大津も、吉野から見れば、“東”になりますか?
大友皇子(弘文天皇)に対して、長髄彦(ながすねひこ)や蝦夷のような扱いですね。
三間社流造の本殿(室町時代)はもう少し、じっくり、観察しておくべきだったかな。

調べた限り、同じ京都府宇治市内でも
木幡と五ヶ庄の2地区に在るようです。
足を踏み入れ、御朱印も頂いたのは
当然、五ヶ庄の「許波多神社」(京都府
宇治市五ヶ庄古川13)の方です。共に
式内大社(正一位・柳大明神)を名乗り、
旧社格は郷社。主祭神は天忍穂耳尊
(あめのおしほみみのみこと)、五ヶ庄では
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、神日本(かんやまと)磐余彦尊(いわれびこのみこと)(=神武天皇)
を加えて、三座としています。同じ大化元年(645)ですが、木幡では皇極天皇の名が
引き合いに出されるのに対し、五ヶ庄では右大臣・蘇我倉山田石川麻呂の奏上を
聞き入れた孝徳天皇が、皇祖を祀るため、中臣(藤原)鎌足に命じ、山背国菟道郡
(うじぐん)許畑(こはた)の柳山に造営させたとの社伝。壬申の乱(672)に際して、大海人
皇子(天武天皇)が戦勝を祈願し、社前に突き立てた柳の枝が後に芽吹いて繁茂した
という霊験から、「柳山(柳大明神)」の名が付いたそうです。さらに、征夷大将軍・
坂上田村麻呂も東征(791)に当たって、武運を祈願し、大功を挙げたとのこと。
神武東征、壬申の乱、蝦夷征伐……大津も、吉野から見れば、“東”になりますか?
大友皇子(弘文天皇)に対して、長髄彦(ながすねひこ)や蝦夷のような扱いですね。
三間社流造の本殿(室町時代)はもう少し、じっくり、観察しておくべきだったかな。
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