源蔵町(2)
源蔵町の名が出てくる上方落語が「米上げ笊(いかき)」。
以前も、勘所だけ抜き書きして紹介させてもらいましたが、
気になるのが「この浪花橋を渡ると、そのへん一帯が
天満の源蔵町や」。「源蔵町」という町名が無くなって
久しい昨今、ふんふんと聞き流してしまう個所ですけれど、
現在の「難波橋」を渡って進んで行っても、源蔵町には
辿り着かないんですねえ。現「難波橋」は大阪市電・
第3期線の開通に際して架けられた物で、それ以前の
「難波橋」は(現在架かっている)堺筋より1つ西側の筋に
架かっており、同所への市電敷設計画に反対運動が起き、
堺筋に移ったそうです。完成は大正4年(1915)となります
けれども、しばらくは先代の「難波橋」も下流に架かって
いたことから、先代が撤去されるまでの間、「大川橋」
と名乗っていた模様。下図は、大正3年(1914)発行の
「大阪市内詳細図」を一部拡大してみました。「難波橋」
と「大川橋」が仲良く共存しています。前「難波橋」を渡って
真っすぐ行けば源蔵町ですが、現「難波橋」(=大川橋)を
渡って行っても、笊屋が無く、銭儲けにはなりまへんな。

参考文献:桂米朝 『上方落語 桂米朝コレクション4 商売繁盛』(ちくま文庫)
参考記事:国際日本文化研究センター
以前も、勘所だけ抜き書きして紹介させてもらいましたが、
気になるのが「この浪花橋を渡ると、そのへん一帯が
天満の源蔵町や」。「源蔵町」という町名が無くなって
久しい昨今、ふんふんと聞き流してしまう個所ですけれど、
現在の「難波橋」を渡って進んで行っても、源蔵町には
辿り着かないんですねえ。現「難波橋」は大阪市電・
第3期線の開通に際して架けられた物で、それ以前の
「難波橋」は(現在架かっている)堺筋より1つ西側の筋に
架かっており、同所への市電敷設計画に反対運動が起き、
堺筋に移ったそうです。完成は大正4年(1915)となります
けれども、しばらくは先代の「難波橋」も下流に架かって
いたことから、先代が撤去されるまでの間、「大川橋」
と名乗っていた模様。下図は、大正3年(1914)発行の
「大阪市内詳細図」を一部拡大してみました。「難波橋」
と「大川橋」が仲良く共存しています。前「難波橋」を渡って
真っすぐ行けば源蔵町ですが、現「難波橋」(=大川橋)を
渡って行っても、笊屋が無く、銭儲けにはなりまへんな。

参考文献:桂米朝 『上方落語 桂米朝コレクション4 商売繁盛』(ちくま文庫)
参考記事:国際日本文化研究センター
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