勘助島の
大浪通を東へ進めば、「大浪橋」が
見えてきました。前回(8月15日)は
見逃がしましたが、今回(9月8日)は
ちゃんと、橋の上まで上がっています。
手前が大阪市大正区、木津川の向こう
(東側)は浪速区です。西の袂の北側に
建った石碑が “勘助島の渡し碑”。
正面(西側)に「わたし 勘助島」、南
面には「すくちかみち なんば 今宮
天王寺 住吉 あミ田池 道頓堀」と
刻まれていますが……崩し字の入門に
適しているかな。木津(中村)勘助
(1587~1661)が新田開発を進めた
姫島(元は砂州)は「勘助島」と呼ばれ、
その勘助島と難波島の間に “渡し”が
設けられていたことを示す石碑でした。
御迎え人形でも有名な木津勘助が
渡しを行っていたという訳ではなくてよ。
右下画像の左上には「木津川橋梁」。
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見えてきました。前回(8月15日)は
見逃がしましたが、今回(9月8日)は
ちゃんと、橋の上まで上がっています。
手前が大阪市大正区、木津川の向こう
(東側)は浪速区です。西の袂の北側に
建った石碑が “勘助島の渡し碑”。
正面(西側)に「わたし 勘助島」、南
面には「すくちかみち なんば 今宮
天王寺 住吉 あミ田池 道頓堀」と
刻まれていますが……崩し字の入門に
適しているかな。木津(中村)勘助
(1587~1661)が新田開発を進めた
姫島(元は砂州)は「勘助島」と呼ばれ、
その勘助島と難波島の間に “渡し”が
設けられていたことを示す石碑でした。
御迎え人形でも有名な木津勘助が
渡しを行っていたという訳ではなくてよ。
右下画像の左上には「木津川橋梁」。
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