江戸時代の納豆価格

元禄3年(1690)の『人倫訓蒙図彙』において、京都の「叩納豆」売りが取り上げられていることは前回触れた。納豆売りの発祥の地が京都か、江戸かはさて置き、江戸の長屋の朝は明六つ(午前6時)に始まった。その時刻に路地口の木戸が開かれるのである。すると、魚売り、野菜売り、総菜売りなど様々な物売りがやって来る。

中には納豆売りも含まれる。当時の川柳で「明星が入ると納豆売りが来る」という意味の句が残されており、明け方、東の空に見える明星(=金星)が消えるころ、すなわち夜が明けると真っ先にやって来るのが納豆売りだったと分かる。納豆売りは早朝の商売であり、長屋の朝は納豆売りの売り声で始まったと言ってよい。

長屋の住人たちは、納豆を朝食のおかずによく利用した。その値段も4文と極めて安く、庶民の味方であったようだ。文政年間(1818〜1829年)ごろには、叩き納豆が盛んに売られていたという。これは先に記したように、納豆を包丁で叩いて細かく刻み、同様に細かく切った豆腐や野菜も付いた「即席納豆汁」のようなもので、薬味も添えて売られていた。そのまま煮立てて納豆汁にして食べるのだが、この叩き納豆が1人分で8文だった。

参考に豆腐の値段を見てみると、豆腐1丁で56〜60文。これを半丁、あるいは4分の1丁ずつ売っていた。焼き豆腐や油揚げは1個5文、がんもどきは1個8〜12文だったという。ただし、これは江戸前の豆腐の値段で、京や大坂では豆腐1丁12文、半丁6文。焼き豆腐、油揚げはいずれも1個2文だった。江戸と上方では豆腐の値段にかなりの格差があるようだが、これは江戸の豆腐が京の豆腐に比べて随分と大ぶりであったためであろう(2007年5月「『あかね空』の豆腐、再び」参照)。また、夏になると枝豆を食べるという習慣は、江戸時代後期に始まったといい、その値段は1束の量にもよるが、4文から8文程度だったらしい。

小売り量が不明とはいえ、江戸時代の納豆の値段4文は、豆腐四半丁(現在の1丁分)14〜15文などと比較して、現在と変わらぬ価格設定のようにも思えるのだが、果たしてどうだったのだろうか。

参考文献:中江克己『お江戸の意外な「モノ」の値段』(PHP文庫)
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通りすがりの夢想家。元(にして最後の)「トーヨー新報」編集人。現在は、一介の編集素浪人?



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「トーヨー新報」は、昭和33年(1958)創刊。大豆加工品(豆腐・油揚げ、納豆、豆乳、湯葉、凍り豆腐、もやし等)、こんにゃく、総菜業界をメイン購読者層に、月3回の旬刊紙「トーヨー新報」や業界関連データブック『豆腐年鑑』を発行。平成25年(2013)12月21日号、第1851号をもって終刊に至る。

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